元広島・紀藤、覚醒のきっかけとなった大豊氏の言葉 元広島右腕の紀藤真琴氏(株式会社EJフィールド代表取締役)は、プロ11…
元広島・紀藤、覚醒のきっかけとなった大豊氏の言葉
元広島右腕の紀藤真琴氏(株式会社EJフィールド代表取締役)は、プロ11年目の1994年にキャリアハイの16勝をマークし、先発投手としてブレークした。恩師の山本和行投手コーチからの教えによって大きく花が開いたが、このシーズン中には、他にも“覚醒のきっかけ”があったという。それは敵の主砲である中日・大豊泰昭内野手からのひと言。「あれは自信になりました」と振り返った。
1994年の紀藤氏は開幕当初は中継ぎ要員だったが、5月1日の中日戦(ナゴヤ球場)で中京高時代のチームメートである中日・野中徹博投手との“先発対決”を7回2/3、3失点投球で制してシーズン2勝目をマーク。そこから波に乗った。続く8日のヤクルト戦(神宮)では、1988年10月12日の大洋戦(広島)以来、プロ2度目の完投勝利を飾るなど、先発ローテーション投手としての立場を確立。前半で8勝を挙げてオールスターゲームにも初出場した。
後半戦も好調をキープ。7回2失点で初の2桁10勝に到達した8月11日の阪神戦(広島)からは4試合連続で2桁奪三振を記録するなど、8月に3完投を含む4勝を挙げて月間MVPも受賞した。さらに9月4日のヤクルト戦(広島)ではプロ初完封で14勝目。最終的には30登板、16勝5敗、防御率3.97の成績を残した。前年(1993年)までは中継ぎがメインだったのが、山本コーチの指導と三村敏之監督の抜擢によって先発転向が大成功となった。
そんなシーズンで忘れられないのが中日・大豊からの言葉だという。「ナゴヤ球場で対戦した時、146キロのインハイの球をピュッと投げたら大豊さんがファウルチップして、その次の日に言われたんですよ。『どうしたんだよ、お前。全然、去年と違う球だ。質が違うよ』って」。山本コーチとの二人三脚で「8分の力で10の球を投げる」フォームに改造した結果が間違っていないことを、この“大豊発言”で確信し「自信になりました」と明かす。
「大豊さんとは仲がよかったんですよ。中日とは、よく乱闘はしていましたけど、(同い年の)マサ(山本昌投手)とかもいたし、普段はよく話をしていたんです」。紀藤氏は大豊氏を決して抑えていたわけではない。野中氏との“中京高対決”に勝った5月1日も、完投で6勝目を挙げた6月28日も、これまた完投で12勝目をマークした8月24日も、いずれもナゴヤ球場での試合で本塁打を浴びた。
「6勝目のときは確か7回2死くらいまでノーヒットだった。で(捕手の)西山(秀二)がインサイドの低めに構えて、そこに投げたら場外に打たれました。でも大豊さんは俺のことを『嫌なピッチャーの1人で、打てないイメージを持っていた』って言うんですよ。『打った時より抑えられたことの方をよく覚えている』って。自分は打たれているつもりでいたんですけどね。大事なところでホームランを打たれていたから」。そんな2歳年上の好敵手からの“賛辞”も紀藤氏のパワーになったわけだ。
紀藤氏と大豊氏は2001年からチームメートに
1994年の紀藤氏は16勝のうち6勝が中日戦で挙げたものだった。もともとナゴヤ球場ではスタンドから「裏切りもの!」とよくヤジられていたそうだが、この年は、さらに過熱したそうだ。「『お前、名古屋出身のくせに』とかね……。(1983年のドラフト会議で広島に3位指名されたからで)別に自分が選んで広島に行ったわけじゃないんですけどね。まぁ、厳しかったですねぇ。昔はファンの方も……」と苦笑するが、もしかしたら、それが逆に負けん気を呼び起こしたのかもしれない。
のちに紀藤氏は中日にトレード移籍し、2001年シーズンからは生まれ故郷でプレー。1998年に阪神に移籍していた大豊氏も、その2001年に中日に復帰してチームメートになるのだから、2人は何かと縁もあったということだろう。
大豊氏は2002年に現役を引退し、中日のアジア地区担当スカウトとしてチェン・ウェイン投手の獲得に尽力。その後は名古屋市で中華料理店「大豊飯店」を経営するなど実業家としても力を発揮していたが、2015年1月18日に、急性骨髄性白血病のため51歳で帰らぬ人となった。紀藤氏にとっても思い出深いスラッガー。1994年の自身のブレークにつながった”あの時の言葉”は、今も耳に残っている。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)