サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は、「歴代人口最少のワールドカップ出場国」について。

■五輪にも1試合だけ出場

 キュラソーのサッカー協会の歴史は長い。1921年に設立された。日本サッカー協会の設立と同年である。そして1932年には、オランダ準州の「キュラソー・サッカー協会」として国際サッカー連盟(FIFA)に加盟を果たす。この協会の傘下には、キュラソーの他、後に「オランダ領アンティル」となる他の5つの島も含まれていた。1954年、正式に「オランダ領アンティル・サッカー協会」となり、1961年には北中米カリブ海サッカー連盟(CONCACAF)発足とともにその一員となった。「オランダ領アンティル」の時代を含め、1921年からの記録はすべて現在のキュラソー協会に引き継がれている。

「オランダ領アンティル」時代は56年間続いたわけだが、その前の「キュラソー」時代からこの国のサッカーは活発に活動し、カリブ海地域の国々との交流を深めた。この時代に最も多く対戦したのはスリナムだった。スリナムは南米大陸の北東角にある国だが、南米サッカー連盟(CONMEBOL)には入れなかった。同じオランダの植民地であることから、交流が盛んだったのだ。

 1952年、キュラソーはフィンランドのヘルシンキで開催されたオリンピックに出場する。この国のサッカー史で、世界大会に出場した過去唯一の記録である。25チームが出場し、ノックアウト式で行われたこの大会、キュラソーは「オランダ領アンティル」の名で出場し2回戦から登場。トルコに1-2で敗れて1試合で大会を去ることになる。

■遠かったワールドカップ

 正式に「オランダ領アンティル」となった後の1957年、初めてワールドカップにエントリー。予選第13組(北米と中米)のサブグループBに入ってコスタリカ、グアテマラとホーム・アンド・アウェーで対戦することになった。

 初戦は1957年3月3日、アウェーのコスタリカ戦。オランダ領アンティルは所属クラブの事情で主力選手を10人も欠き、0-4で敗れた。しかし11日後、グアテラマとのアウェーゲームで初勝利を記録する。前半にウィルフレド・デラノイが2点を決め、後半にモルティマー・ミューレンスが追加して3-1の快勝だった。

 しかし中米の大国であるコスタリカは、オランダ領アンティルにとってあまりにも強敵だった。8月4日、首都ウィレムスタットでのホームゲームは、強風にも助けられて奮闘したものの、1-2の敗戦に終わった。サブグループAとのプレーオフに臨めるのは1チームのみ。この時点で4戦全勝のコスタリカのプレーオフ進出が決まった。4日後に予定されていたキュラソー×グアテマラは、7月26日にグアテマラの大統領が暗殺され、政情不安から外国への渡航が禁止されたため中止となった。

 以後、2010年の南アフリカ大会まで、オランダ領アンティルのワールドカップへの挑戦は14大会続いたが、すべて敗退。「キュラソー」となった2014年大会からの3大会も夢はかなわなかった。

■転機は「海外組」招集

 しかしキュラソー・サッカー協会は野心を持っていた。「海外組」の招集である。歴史的な経緯から、オランダでは、キュラソーにルーツを持つ選手がプロとして多数活躍していた。かつてスペインのFCバルセロナでエースとなり、1998年のワールドカップ・フランス大会などでオランダ代表として活躍したパトリック・クライファートをはじめ、オランダ代表となった選手も数多くいた。

 キュラソー協会は、オランダ代表にはなれないが、それに次ぐクラスの選手に声をかければ、キュラソー代表としてプレーしてくれるのではないかと考えた。そして積極的に声をかけた。

 その初期の選手が、横浜F・マリノス浦和レッズなどJリーグの5クラブで2016年から2022年まで活躍したクエンテン・マルティノスだ。彼はキュラソーの首都ウィレムスタットで生まれ、1歳になる前に家族でオランダに移住、そこでサッカー選手として頭角を現し、U-17オランダ代表に選ばれる。しかし18歳のときに膝に重傷を負い、オランダ代表への道を閉ざされると、キュラソー代表からの招集に応えて9試合に出場、1得点を記録した。

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