<寺尾で候>日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。   ◇    ◇  …

<寺尾で候>

日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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第6回WBC大会は、国内のプロ野球が盛り上がるか、否かの試金石になる。それは“大谷狂想曲”に導かれた23年の前回大会が証明した。その流れで25年のセ・パ両リーグの1試合平均入場者数は3万1515人にまで上昇した。

世界一に輝いた第5回大会の前年22年は、1試合平均2万4558人だったから、いかに日本球界に影響を及ぼしたかがうかがえる。その意味では、井端弘和が率いる侍ジャパンの戦いぶりは、大きな責任を負うことになる。

井端という男を知る1人に、中日監督だった山田久志がいる。現役時代は阪急ブレーブス(現オリックス)で、通算284勝を挙げた史上最強のサブマリン。オリックス、中日でコーチを経験し、星野仙一の後継として監督の座に就いた。

現役時代のショート井端は、二塁手だった荒木雅博と鉄壁の二遊間コンビで名を知らしめた。それは“アライバ”と称され、04年から6年連続でゴールデングラブ賞を受賞するほどのハイレベルの守備力を誇る1、2番コンビだった。

その“アライバ”の「生みの親」が、中日を率いた山田だ。また原辰徳監督だった09年の第2回大会ではヘッド格の投手コーチとして世界一に導いた。井端が代表監督を受諾する際には連絡を受けた。

「井端は選手として安定感があったし、成功、失敗によってバタバタしないだろうし、動じるタイプではない。おれも起用する難しさは味わってきた。1次ラウンドは突破するだろうから、マイアミに向かうとき、どのようにチームがまとまっているかだろう」

山田はWBC出場メンバーについて「今の日本球界のベストメンバーを選んだわけで、人選は非の打ちどころがない。あえて言うならキャッチャーとショートに、だれを選んで、どう起用するかは考えたのではないだろうか」と語った。

09年の第2回WBC大会は、前年08年北京五輪を率いた星野仙一が引き続き代表監督に就任することが有力視された。だが五輪でメダルなしの無残な結果に終わって、世論の激しい反発を受け、球界の内外からも異論が生じた。

星野監督は頓挫し、紆余曲折の末に、巨人の現場監督だった原に白羽の矢が立った。代表チームに「サムライジャパン」の名称がついたのは、この大会からだ。中日の全選手が出場辞退し、東京ラウンドでイチローが不振に陥るなど、さまざまな不測の事態が起きた。

そんな逆風を乗り越えて連覇を遂げたハイライトが、ダルビッシュ有の驚きのストッパー起用だった。準決勝、決勝で先発だったダルビッシュを抑えに回したのは、山田の起用案で、原が決断を下した。この“ウルトラC”がはまった。

最初は抑え役を固辞したダルビッシュだが、日本で経験したことのなかった大役を果たした。決勝ではダルビッシュが投げ、イチローが打って、日本は頂点に立った。松坂、岩隈を軸に、巨人の左腕エース杉内をリリーフに回すなど、まさに短期決戦の戦法で勝利を収めた。

監督の原から、投手の人選、起用を一任されていた山田は、その日のゲームプランを想定した上で、毎試合ごとに、起用するピッチャーを紙に書いて監督に渡していた。山田が今回の大会について準々決勝に臨む「マイアミから」といったのは、この時点では投手陣も絞られていることを示している。

「マイアミにいった後の準々決勝から投げる先発の3人は、それぞれ調整があるから早めに決めておいたほうがいい。向こうにいくときは、もう総動員という姿勢にはなるだろうが、実際、あと3試合に投げるピッチャーは、7、8人に絞られる。ここの見極めがポイントになってくる。あとは抑えの人選もカギを握るだろう」

最強投手陣を束ねた男の眼力と育成術、継投の妙には定評がある。信条は「ピッチャーで攻める」-。名伯楽は「このメンバーを見ると、今の日本は打つほうだって、もう米国、ドミニカ共和国にひけをとらないよ。がっぷり四つだ」と先を読んだ。(敬称略)