元ソフトバンク監督・藤本博史インタビュー(前編) 通算1103試合出場、105本塁打。数字だけを見れば、派手さはないかも…

元ソフトバンク監督・藤本博史インタビュー(前編)

 通算1103試合出場、105本塁打。数字だけを見れば、派手さはないかもしれない。しかし藤本博史は、「塁に出る」ことに徹底してこだわり、自らの居場所をプロの世界で築き上げた。現役時代の自己分析から、引退後の異色の経験、そして指導者としての原点を語る。


2022年から2年間、ソフトバンクの監督を務めた藤本博史氏

 photo by Sankei Visual

【出塁率にこだわった現役時代】

── 1998年を最後に現役引退。通算1103試合に出場され、105本塁打、419打点。ほかにも、サイクル安打達成というのもありました。あらためて振り返ると、どんな選手だったと分析しますか。

藤本 プロ入り4年目に一軍に上げてもらいました。当時、チーム(南海)には高校(天理)の大先輩である門田博光さんがおられて、「ホームランを打て」と、よくアドバイスをいただきました。当時の南海は万年Bクラスで、レギュラーになれるだろうという気持ちで入ったのですが、プロの世界がそんなに甘くないのはすぐにわかりました。だから、自分が何をすればレギュラーになれるかを考えて、一軍昇格後は無我夢中でしたね。

── 南海がダイエーに代わった1989年から、7年連続2ケタ本塁打をマークしました。

藤本 走者がいない時は、本塁打を打ちたくて振り回していましたが、ランナーがいる時はチームバッティングを意識してきました。とくに右打ちの練習はものすごくやりました。

── 四球も多かったですし、出塁率も高かったですよね。

藤本 みんな「選球眼、選球眼」と言いますが、選球眼だけで簡単に四球を取れるわけではありません。打撃に関しても、その時代ごとにスタイルがありました。私の現役時代は「安打の延長が本塁打」という考え方でしたし、「逆方向への打撃」で出塁率を高めたことで、試合に多く出場できたのだと思います。

── ダイエーになってから、松永浩美さんや石毛宏典さんなど、他球団のライバルが移籍してきました。

藤本 ふたりとも超一流ですし、そのなかで自分が生き残るにはどうすればいいのかを考えながら取り組んでいました。足も速くないですし、振り回していた頃は併殺打がリーグ最多だった。しかし、それを減らすために右打ちを意識するようになり、併殺打は1993年の16個から1994年には3個まで減りました。その結果、得点圏打率でリーグ1位になった。練習の成果が表れたと思いますし、自分にとって誇りでもあります。

── 現役生活を振り返って、誇りに思っていることは何ですか。

藤本 出塁率ですね。通算打率は.235ですが、出塁率は.337でしたから。とにかく、塁に出ることを考えて打席に入っていました。

── 1992年には首位打者の佐々木誠さん(ダイエー)の出塁率をも上回りました。

藤本 2ストライクまでは自分のスイングをして、追いこまれたら考え方を変え、厳しいボールに対してはファウルで逃げる。ボール球を見極めるなど、いわゆる「ストライクアプローチ」ができた成果だと思います。

【指導者として生きた居酒屋経営の経験】

── 1998年にオリックスに移籍し、その年限りで引退。翌年に古巣・ダイエーが球団創設初優勝を遂げたのを解説席で見ていて、どんな心境でしたか。

藤本 王貞治監督が胴上げされる姿を見て、「自分も輪の中に入りたい」というコメントを残していたみたいです。自分ではあまり覚えていないのですが......。16年間在籍したチームが優勝したのですから、うれしかったですよ。私が入団した当時は万年Bクラスでしたが、ダイエーになってから王監督を招聘し、根本陸夫さんがトレードで秋山幸二さんを、FAで松永さんや石毛さんを獲得。チームは活性化していきました。

── そうやって地盤づくりをしたのですね。

藤本 秋山さんが加入したのは大きかったですね。「こうしろ、ああしろ」とは言いませんが、背中でチームを引っ張ってくれました。私が引退する頃には、小久保裕紀や松中信彦が若手でいて、秋山さんを頂点としたいいバランスのピラミッドができていました。

── 引退後は、1999年から2010年までの11年間、居酒屋「藤もと亭」を経営されていました。

藤本 引退翌年から解説者を務めていたのですが、解説は多くても年間で50試合ほど。前日練習を見に行ったとしても年間100日。空いている日がけっこうあったので、居酒屋を経営したわけです。

── やってみて、いかがでしたか?

藤本 もともとマスコミが苦手でしたし、しゃべるのも得意ではありませんでした。しかし、居酒屋をやったことでものすごく勉強になりました。店ではまったく知らないお客さんから話しかけられても、愛想よく接しなければ商売になりません。コーチ、監督になった時、選手の長所をマスコミにアピールできたのも、居酒屋での経験があったからこそだと思います。

【柳田悠岐をマンツーマン指導】

── 逆に、現場から11年間のブランクがあって、球界に復帰したのはどういう経緯だったのですか。

藤本 当時GMだった小林至さんから、「二軍の打撃コーチをやってもらえませんか」と連絡いただいたのがきっかけです。ホークスジュニアでの指導の仕方を見ていてくれたのかもしれません。

── どういう指導法だったのですか。

藤本 私の現役時代は、「やれ」と言われたら「はい」としか言えない時代でした。しかし、今はもうそういう時代ではありません。仮に何かをやらせるにしても、その理由をきちんと説明する必要があります。たとえば調子が悪い選手には、「こういう練習方法もあるよ」と、いくつか選択肢を示してあげる。「ダメだったら、次はこれをやってみような」という形の指導でなければ、選手はついてきません。

── 2011年から8年間打撃コーチをされました。印象に残った選手はいますか?

藤本 打撃コーチ1年目に二軍で指導したのが、プロ入りしてきた柳田悠岐です。球団からは「1年目は投球に当てにいくような打撃ではなく、まずはフルスイングをさせてほしい」と言われていました。そこで2年目を迎えるにあたり、「さて、どうしていこうか」と考え、タイミングをはじめ、さまざまな点を一緒に練習に取り組んだわけです。ああ見えて、とても研究熱心な選手ですよ(笑)。

── 具体的にどういうことをしていたのですか。

藤本 元メジャーのバリー・ボンズやタフィ・ローズ(近鉄ほか)の打撃を手本に、研究を重ねていました。柳田の3年目、一軍監督だった秋山さんから「二軍から一軍の打撃コーチとして上がって、柳田を見ておけ」と言われたんです。ところが、柳田は9試合目か10試合目でスタメンを外されてしまい、試合中にもかかわらず、ふたりでゲームを離れて打撃練習をした記憶があります。それでも最終的に、初の100試合出場を果たし、初の2ケタ本塁打をマークしました。

つづく>>

藤本博史(ふじもと・ひろし)/1963年11月8日生まれ。大阪府出身。天理高から1981年ドラフト4位で南海に入団。強打の内野手として活躍。1998年のシーズン途中にオリックスに移籍し、その年限りで現役を引退。引退後は解説者の傍ら、居酒屋を経営するなど長らく球界から離れていたが、2011年に二軍打撃コーチに就任。その後、一軍打撃コーチ、三軍監督、二軍監督を歴任し、2022年から2年間、一軍監督としてチームを率いた