元広島・紀藤氏が明かす津田恒実氏とのエピソード 元赤ヘル右腕の紀藤真琴氏(株式会社EJフィールド代表取締役)にとって、プ…

元広島・紀藤氏が明かす津田恒実氏とのエピソード

 元赤ヘル右腕の紀藤真琴氏(株式会社EJフィールド代表取締役)にとって、プロ9年目(1992年)は試練のシーズンだった。ここ数年の登板過多の影響もあったのだろう。右肘痛を発症して、オフに手術した。リハビリにも時間がかかり、本来の力を発揮できなかった10年目(1993年)には、お世話になった先輩の津田恒実投手の訃報も届き、大ショックを受けた。最後に会った日のことは「一生忘れることはないでしょう」と語った。

 プロ6年目の1989年に61登板したのをはじめ、紀藤氏は1軍定着以降、ほぼフル回転で投げ続けてきた。8年目の1991年には主に中継ぎ投手として広島のリーグ優勝にも貢献した。しかし、9年目の1992年は一転して苦しいシーズンになった。全てリリーフの21登板で0勝0敗1セーブ、防御率4.55。右肘痛に悩まされて、思うような投球ができず、終盤の9月は1登板、10月は登板なしに終わった。

「その年はずっと(右肘が)痛かった。そりゃあ、あれだけ投げてきたら、絶対どこかは壊れるでしょう。あれで、どこも悪くならない人はいないと思いますよ」と話したが、歯がゆい思いだったはずだ。検査の結果、遊離軟骨(ネズミ)が見つかり、オフに手術した。「手術は内視鏡ではなく、バーッと切って骨も削ったんです。15針くらい縫ったのかな。内視鏡と違って、傷がなかなか治らなくてリハビリにも時間がかかりました」。

 10年目(1993年)の初登板は6月8日の横浜戦(広島)。1-6の9回に4番手で前年9月2日以来の1軍マウンドに上がったが、打者5人に3安打1四球の1/3回4失点だった。「2軍の時に(1軍首脳陣に)『どうだ』って聞かれて『まだスピードが130キロぐらいしか出ていないから多分、無理です』って話をしたんですよ。『それでもいいから上がって来い』と言われて上がって投げたけど、やっぱりスピードが出なくて……」。

 結局、その1試合で登録を抹消され2軍へUターン。「だって、まだリハビリ中でしたから。2軍でも試合にまともに投げていなかったんですからね」と言い、そこからまた立て直しに励んだ。7月に再昇格すると、7日の阪神戦(広島)に3番手で登板し、打者3人に投げて、全て三振の1回無失点。その裏に広島が逆転して1991年9月20日のヤクルト戦(広島)以来の白星を手にした。その試合も含め、球宴折り返し前まで5試合に投げて、いずれも無失点だった。

 悲しい知らせはその後、東京ドームで球宴第1戦が行われた7月20日に届いた。“炎のストッパー”津田氏が脳腫瘍のために亡くなった。1991年4月にチームを離れて闘病生活を送っていたが、32歳の若さで帰らぬ人になった。当時、広島で調整していた紀藤氏は「凄くショックでした。あれだけ凄い投手で、なおかつマウンドから降りたらニコッと笑って凄く愛嬌のある先輩。でも怒る時はしっかりと怒ってくれるみたいな……。存在的にも凄く大きな先輩だったので……」と打ちひしがれた。

療養中の津田氏と再会「一生、忘れることはない」

 紀藤氏が最後に会ったのは、津田氏が福岡市内で療養していた時だという。「オフに1人で津田さんの家に行きました。1人で行ったほうが面と向かって話ができると思ったんでね。ピンポンを鳴らしても、なかなか出てこられなくて。あれっ、おられないのかなぁって考えていたら、だいぶ後になってガチャガチャって音がして津田さんが出てこられた。ガリガリになられていて『まぁ、入って来い』って言われて……」。

 2人でいろんな話をしたそうだ。「一緒に座ってね……。そこで『俺はもう1回復活するから』って言われたんです。『頑張ってください』と言いました。でも、こちらが神妙な面持ちだったんでしょうね。やっぱり以前とは違う雰囲気に自分がなっていたんだと思います。津田さんはね、自分を笑わせよう、笑わせようとするんですよ。冗談を言ったり、わざとおならをしてみたりとか……。そんな津田さんを見て、涙をこらえるのが大変だったのを覚えています」。

 津田氏の家を出てから、紀藤氏は「泣きながら帰りました」と話す。「タクシーにも何も乗らず、歩いて駅まで行きました。それが最寄りの駅だったのかは分からない。どこを歩いていたのかも……。津田さんの家は小高い山の上にあったんですけど、そこから津田さんのことをずーっと考えながら歩きました」。その日の津田氏の様子は今でも目に浮かぶという。「よう忘れないですね、あれだけは……。一生、忘れることはないでしょう」と寂しそうに話した。

 1993年の紀藤氏は20登板、1勝1敗、防御率3.43。まだまだ万全ではなかったが、シーズン後半も懸命に投げた。山本和行投手コーチの指導を受け、復活へ向けて再び歩み始めた。“津田魂”を継承し、先輩の分まで投げると誓った。「その後の野球人生で、肩が痛い、肘が痛いっていうのは別にそんなもん、死ぬわけじゃないじゃないかって考え方になりました。それは身についちゃいましたよね」。

 翌1994年、7月14日に広島市民球場一塁側ブルペンに“津田プレート”が設置され、プロ11年目の紀藤氏は必ずそれに触れてからマウンドに上がったという。そして、その年の8月には4勝を挙げて初の月間MVPに輝くなど最終的には16勝をマークし、先発投手としての素質を完全に開花させた。それは自身の努力、精進、山本投手コーチの教えに加えて、“津田魂”もあっての結果だったに違いない。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)