世界王者としての激闘で記憶に残る徳山昌守 photo by Reuters/AFLO井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リ…

世界王者としての激闘で記憶に残る徳山昌守 photo by Reuters/AFLO
井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち19:徳山昌守
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"ホンモノ"は西方より現れる。1980年から30年以上もの間、ボクシング界のトップ選手の多くは、関西のジムに所属、もしくは関西圏出身者で占められていた。徳山昌守(金沢ジム)の存在もその系譜のなかにある。決してパンチャーではなかったが、リズミカルなアウトボクシング、流星のようにきらめいて走る右ストレートで観る者を魅了した。
2000年にWBC世界スーパーフライ級タイトルを奪い、一度は痛恨の王座陥落を味わいながら、再戦で頂上に立ち戻る。2006年、不敗のまま引退するまでに8連続を含む、計9度の世界タイトル防衛に成功している。(文中敬称略)
【長い下積みで作り上げた攻防の厚み】
『道険笑歩』
自著のタイトルである。険しい道も笑って歩こうーーボクサーとして、また人生を往くテーマとして、徳山が創り出した言葉であり、その言葉どおりの半生を歩んできた。自著のタイトルにもなった。そのボクシングキャリアは決してたやすい道ではなかった。厳しい"登攀ルート"をあえて自分に課したとも言える。
徳山は日本での名字である。在日朝鮮人3世、洪昌守(ホン・チャンスー)として東京都大田区に生まれ、東京朝鮮高級学校でボクシングを学んだ。アマチュア時代、さほどの戦歴を残したわけではない。高校を卒業後は、家業の建築業を手伝ったが、気持ちはくすぶったままだった。「ボクシングを続けたい」とプロ入りを決意。自身の甘さを断つために、あえて大阪にあるグリーンツダジムを入門先に選んだ。
1994年、プロデビュー。当時から自分の出自を明かし、祖国への思いをたびたび口にした。民族の誇り、使命感を拳に込めて戦った。ただし、無傷の11連勝(2KO)をマークしながら、期待感が東京を拠点に記者活動をしていた私にはなかなか届いてこなかった。やがて日本タイトル挑戦(フライ級)のチャンスをつかみながら、引き分けと負傷判定負けで2度王座獲得を逸している。日本タイトルマッチに到達する以前には、グリーンツダジムから同じ大阪市内にある金沢ジムに移籍もしている。
1998年、古巣の偉大な先輩、井岡弘樹(2階級制覇世界チャンピオン)を一方的に打ちまくり、レフェリーストップによるTKO勝ちを収めて、引退を決意させた。徳山という名前はやや大きめにクローズアップされたものの、世界への準備期間はまだまだ続く。翌1999年に決定戦に勝って東洋太平洋スーパーフライ級チャンピオンとなり、このタイトルを2度防衛する。結果的にさらに積み重ねた経験が、技術的に大きく成長することにつながったのだろう。
長身を小さなステップで踏み重ね、どんなときでも自分のリズムで戦える。押し込むような左ジャブを駆使し、中間距離以降をしっかり守る。鋭くステップインして打ち込む右ストレートの威力がぐんと上がった。とくに試合前半の切れ味は抜群だった。左フック、タイムリーなボディショットも光った。ガードを下げたままの構えながら守りも十分に手堅く、柔らかな上体のしなりでクリーンヒットは容易に許さなかった。
どこまでもハイテンポに攻防を組み立てて戦うため、後半戦にスタミナを欠く傾向があっても、接近すると上体を寄せて、巧みに対戦者の攻撃を遮る。試合運びの細部までしっかりと作り込む、いい意味での"あざとさ"もあった。
【劇的な戦いでリングを彩った】
徳山昌守にとってのハイライトの時間は、2000年8月27日、世界タイトル初挑戦から始まった。チャンピオンは曺仁柱(韓国/チョー・インジュ)。世界ジュニア選手権で優勝するなどアマチュアで活躍し、プロでは6度のWBC世界スーパーフライ級タイトルマッチを含んで18戦全勝の難敵だ。
会場の大阪府立体育会館はえも言えぬ高揚感と興奮に包まれた。韓国の曺に対する徳山は北朝鮮国籍だった。同じ民族であっても、祖国は分断されたままだ。社会体制と価値観もまったく違う。在日朝鮮同胞も曺側と徳山側に切り分けられ、熱烈な応援合戦が繰り広げられた。そして試合は、徳山はその強さを存分に見せつける。4ラウンドにはきれいな右ストレートでダウンを奪い、3−0判定勝ち。ついに世界の頂点に立った。
9カ月後、再戦が行なわれる。今度は韓国・ソウルでの戦いだった。互いの国歌ではなく、朝鮮統一歌がセレモニーで歌われるなど、"分断された祖国"を持つ両者に十分に配慮されたイベントだったが、多数の警察隊が警備を取り仕切るものものしさ。緊迫した空気が拭えないなか、徳山はさらに明白な形で決着をつけた。5ラウンド、右ストレート一閃。背中からキャンバスに落下した曺はそのまま立ってこなかった。
このボクサーの力の真相をさらに引き立てたのは、2003年から3年にわたって、ほぼ1年の間隔を置いて行なった川嶋勝重(大橋)との3つの戦いだったろう。
大阪市中央体育館での初戦、徳山の正確なパンチが上回る。ハードパンチを武器に、スラッガースタイルで戦う川嶋も激しく迫るが、うまくかわして3−0の判定勝ち。
大箱の横浜アリーナで開催されたリターンマッチでは、今度は痛恨の一撃に泣く。立ちあがり、不用意に浴びた右パンチがすべてだった。顔面からキャンバスに落ちた徳山はダメージが深い。なんとか立ち上がったものの、川嶋の追撃は鋭く、左フックでたちどころに倒された。レフェリーはそのまま試合終了を宣した。4年間保持したチャンピオンベルトを、たった107秒で失った。
ラバーマッチ(第3戦)は、それから13カ月後のことだ。その間に2度の防衛戦をこなした川嶋に対し、徳山はこの戦いにダイレクトに臨んだ。試合を重ねることで勢いを増した川嶋か。この一戦に対策を深め、すべてをかけた徳山か。予想は割れる。徳山の立ち上がりは絶好だった。得意の右ストレートが切れに切れた。川嶋の顔面を激しく叩き、あるいはボディを深々とえぐった。
オーバーペースが心配されるほどの徳山のアタックだったが、先手必勝はボクシングのセオリーでもある。中盤以降、反撃に転じた川嶋だったが、序盤に被弾したダメージもあったろうし、採点上のビハインドに心は軋んでいたかもしれない。大振りのパンチは当たらず、その攻めははっきりと威力を失っていた。徳山は最終回、川嶋の右を浴びると同時に足を滑らせて倒れ、ダウンと判定されるも、3人のジャッジとも順当に徳山の勝利を支持していた。
【ボクシングへの敬意を胸に現在は後進を育成】
2006年2月、シドニー五輪代表からプロになった難敵ホセ・ナバロ(アメリカ)を判定で破ったあと、徳山はなかなか進退を明らかにしなかったが、長谷川穂積(WBC世界バンタム級チャンピオン)などライバルとの対戦を前提に現役続行を表明する。しかし、念願の戦いは実現しなかった。翌春、正式に引退を発表した。
リングを退いた後は焼肉の聖地、大阪は鶴橋に焼肉店を開いた。ずいぶんと繁盛していたと聞いていたが、2017年にこの店を閉めた。そして今は東大阪市で『徳山ボクシングジム』を主催する。プロ加盟も認められ、早くもプロライセンサーも育っている。
目標は世界チャンピオンを育てること。現役時代、プロボクサーとしての環境は決して恵まれたものではなかったが、「ボクシングを尊敬している」とその情熱は尽きない。アイデアに育まれたスキルフルな戦いが心情だった徳山だけに、どんな素敵なテクニシャンを育ててくれるのだろうか。期待したい。
●Profile
とくやま・まさもり/1974年9月17日生まれ、東京都大田区出身。本名は洪昌守。5歳から空手を学び、東京朝鮮高級学校でボクシングを始め、3年間で12勝(2KO・RSC)5敗の戦績を残す。1994年、大阪のグリーンツダジムからプロ転向(その後、金沢ジムへ移籍)。1999年に東洋太平洋スーパーフライ級王座を獲得。2000年には曺仁柱(韓国)を破ってWBC世界スーパーフライ級チャンピオンに。9度目の防衛戦で川嶋勝重(大橋)に初回TKO負けを喫して王座陥落。翌年、川嶋の王座に挑み、判定勝ちで王座に復活した。2度目のタイトルを1度防衛後、リングを去った。身長170cm。36戦32勝(8KO)3敗1分。距離管理に長けるアウトボクシングの名手だった。