<寺尾で候>日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。 ◇ ◇ …
<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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京都に粉雪が舞った。昨年2月3日、天国へと旅立った阪神初代日本一監督・吉田義男の一周忌法要が、このほどしめやかに営まれた。由緒あるその寺は、代々先祖が眠る菩提(ぼだい)寺で、ちらつく雪の演出とともに、厳粛な雰囲気に包まれた。
吉田家は兵庫・丹波の農家だったが、生計を立てるのが厳しくなって京都に出てきた。薪炭商の父正三郎と母ユキノとの間に生まれた2男3女の次男。太平洋戦争の戦禍を逃れるのに子供たちだけで疎開し、後で家族は一緒になった。
正三郎は病弱だったこともあって、吉田少年は重い炭俵、まきの束をリアカーで運ぶ手伝いをした。頑固で厳しかった父が急逝すると、その半年後、おおらかだった母も鬼籍に入った。吉田が京都・山城高1年の出来事だ。
両親を同時に失ったことで、家業を継いだのが、長男の正雄だった。伏見工に通いながら、父親代わりをするのは並大抵でなかっただろう。生前の吉田は「兄には足を向けて寝れない」と恩義を口にしていた。
ただでさえ食糧難だった時代で、そこに家庭の事情がかぶさって、経済的にも困窮した。吉田にとっては野球どころの状況ではなかった。そんな苦境にも、弟・義男の背中を押したのは兄の正雄だった。
「お前は好きな野球を続けろ…」
高校時代の正雄は建築科にいたが、残された弟妹を食べさせるのに働かざるを得なかった。吉田の一周忌で、読経をあげた供養の後、正雄の息子・一也と話した。「貧乏は根性を生むんでしょうね。ハングリーになるんですよ」。兄の導きがなければ“牛若丸”は誕生しなかった。
サラリーマン時代にベルギーに駐在した経験をもつ一也は、叔父にあたる吉田を回想した。フランス代表監督としてベルギー遠征した際、オランダとの国境にある都市アントワープで中華料理をごちそうになった思い出を語る一也はうれしそうだった。
「うちの父も、おじさんも、お酒を飲まなかったし、真面目だったと思います。まだ現役選手だった1964年に優勝したとき、おじさんの自宅に遊びにいったら、まだ普及していないカラーテレビがあったので驚きました。東京五輪をかじりついて見ました。監督でリーグ優勝した神宮球場も、日本一になった西武球場にも行きました。会社でも話題になって誇らしかったです」
墓前に立った一也は「でも、どうしておじさんは京都にお墓だったんでしょうね?」とつぶやいた。生前の吉田は、すでに自身の死後の墓を建てる準備をしていた。複数の案には、都内に建立するプランもあるにはあったが、本人がそれをかたくなに拒んだ。
「東京はかなわん…」
“打倒巨人”に生きた男の自負かと勝手に解釈したものだが、その墓に行って吉田の心根に触れた気がした。吉田義男の墓は、先祖代々と、そして自分が心底慕った兄が眠る墓が見える控えめな場所に、「弟だから」と少し距離を置いて建てられた。まるで兄弟が“顔”を合わせるかのように…。
吉田は最後まで、そして冥土に行った後も、故郷にこだわった。法事後の食事会は、生家近くにたたずむ100年以上も続く名料亭。そこは、現役時代、また監督として優勝した際に祝勝会が開かれた同じ座敷だった。
お寺から料亭に向かうのに、吉田ファミリーと一緒に北野天満宮御旅所(おたびしょ)がある商店街を歩いた。本宮から祭礼のみこしが巡行するその筋は、かつて阪神日本一の祝賀パレードが挙行された聖地。“天下”をとった男がみこしに乗った。球春が待ち遠しい。雪がちらついた空から、日差しが差し込んだ。(敬称略)