背番号12は1年で終了…高木宣宏氏のために「11」へ 元広島右腕の紀藤真琴氏(株式会社EJフィールド代表取締役)はプロ6…
背番号12は1年で終了…高木宣宏氏のために「11」へ
元広島右腕の紀藤真琴氏(株式会社EJフィールド代表取締役)はプロ6年目の1989年、オールリリーフの61登板で、4勝1敗7セーブ、防御率2.68の成績を残した。広島・山本浩二監督体制1年目シーズンに中継ぎ、抑えとしてフル回転したが「開幕当初は148キロとか投げていたのが、最後は132キロくらいでした」。試合前練習からヘトヘトになり、本番にもビシバシ登板。躍進の年にもかかわらず他球団からは「大丈夫か」と同情されていたという。
ミスター赤ヘルが監督になって帰ってきた1989年シーズン、紀藤氏の背番号は11になった。前年(1988年)に55から12に変更したばかりだったが、わずか1年で、また変わった。「(それまで11番をつけていた左腕投手の)高木(宣宏)さんが、あまり調子が上がらないので背番号を変えたいということで、自分が12から11になったんです」。
1981年ドラフト3位で北陽高(現・関大北陽)から入団の高木はプロ2年目の1983年から12番をつけ、4年目の1985年には9勝を挙げるなど活躍した。しかし、11番に変えた5年目の1986年は7登板で1勝。左肩痛に苦しみ、6年目(1987年)、7年目(1988年)は1軍登板なしに終わり、心機一転、以前の12番に戻したいとのことで、12番と11番で紀藤氏と背番号を入れ替えることになったそうだ。
「その時のことはよく覚えていますよ。(1軍投手コーチの)池谷(公二郎)さんに『お前、11番をつけろ』って言われたんです。自分は1年しか12番をつけていなかったから『またですかぁ』って言いましたよ。だって、アンダーシャツから、すべてまた番号を書き直さなければいけないじゃないですか。だから、そう言ったんですけど、そしたら池さんに『なんだ、ワシの番号が嫌なのか』って言われて……」。
11番は1976年に20勝を挙げて最多勝に輝くなど実績ある池谷コーチの現役時代の背番号でもあった。「『いや、そんなことはないんですけど』と言って『つけます。つけさせていただきます』と……。それで11番をつけたんですけどね」。もっとも、そんな形で巡り合った11番が、この先、カープでの紀藤氏の代名詞的数字になっていくのだから、縁があったということだろう。
6月には6試合連続登板も…1989年はリーグ最多61試合でマウンドへ
実際、その“11番元年”の1989年に紀藤氏はさらに飛躍した。開幕4戦目の4月12日の大洋戦(横浜)で2番手で登板し、1回無失点。これにはじまり投げまくった。2登板目(4月13日、横浜戦)は連投で5回途中から3番手でマウンドに上がり、2回1/3、無失点でシーズン1勝目を挙げ、3登板目の4月15日の巨人戦(東京ドーム)では5-2の8回から先発・北別府学投手をリリーフして2回無失点でプロ初セーブをマークした。
「ペイさん(北別府投手)の後(の登板)はプレッシャーがかかるんですけど、勝っていたら自分というケースが多かったんですよ。で、同点とか逆転とかされたら池さんに怒られますからね。『お前、今日の試合、どういう試合かわかっているのか』とかね」。そんな重圧とも闘いながら、精神面もまたさらに鍛えられたようだが、この山本体制になってからは試合前練習も「大変だった」という。
レフト、ライト間の外野フィールドを走りながら、センターを越えたくらいでノッカーが、走る前方へ放った打球をキャッチしていくアメリカンノック。それが紀藤氏ら若手投手陣には毎日課せられていたからだ。「ダッシュが終わったらアメリカンをやって、それから試合ですよ。移動してゲームの日もそう。相手チームもびっくりしていましたよ。“おいアメリカンやっているぞ”ってね。自分はあの年(1989年)に、それで61試合に投げたんですからね。今じゃ絶対あり得ないですよ。地獄。よく体が持ったなぁって思います」と苦笑するばかりだ。
4試合連続登板は当たり前で、6月には6試合連続登板もあった。「開幕した頃は(球速も)148とか出ていたけど、最後の方は132しか出なかった。もう疲弊していました。50何試合目(の登板)になってくると相手のベンチから『またかよ』って声が聞こえてくるんですよ。笑っているんですよ、みんな。『大丈夫かぁ、お前』とか言われてね……」。そんな状況下での61登板。飛躍の年は、そういう意味でも忘れられないシーズンのようだ。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)