関節技の鬼 藤原喜明のプロレス人生(3)(連載2:藤原喜明が明かす新日本プロレスに入門した理由 それ以前は会社員やコック…

関節技の鬼 藤原喜明のプロレス人生(3)

(連載2:藤原喜明が明かす新日本プロレスに入門した理由 それ以前は会社員やコック、冷凍マグロの解体も経験>>)

 プロレスラー藤原喜明は、サラリーマンを経て、23歳で旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。アントニオ猪木、カール・ゴッチの薫陶を受け、道場で関節技の技術を磨き、新日本プロレス最強伝説の礎を築いた。

 そんな藤原が激動の人生を振り返る連載の第3回は、アントニオ猪木との初対面と「いきなりのデビュー戦」について語った。


海岸を走るアントニオ猪木(左)と藤原喜明

 photo by 東京スポーツ/アフロ

【初めて対面した猪木のオーラ】

 藤原は横浜の中央卸売市場で働きながら、元プロレスラーの金子武雄が主宰するボディビルジムに入会したことが縁で、新日本プロレスへの入門を決意した。

 時は、1972年11月2日の木曜日。前年12月に幹部との対立で日本プロレスを追放されたアントニオ猪木が、3月6日に大田区体育館(現・大田区総合体育館)で新日本を旗揚げしてから8カ月を迎える頃だった。

 テレビでのレギュラー放送はなく、団体の経営は逼迫していた。そんななかで藤原は金子に連れられ、港区南青山にあった当時の事務所を訪れた。そこで、アントニオ猪木と初めて対面する。

「金子さんに『オイ! 藤原、行くぞ』って言われて新日本の事務所に連れていかれたんだよ。応接室みたいなところに座ってたら猪木さんが来てな。今でも忘れないよ。コールテン生地のズボンに茶色のブーツを履いてたなぁ......背が高くて肩幅が広くて、カッコよかった。オーラがまぶしくて『すげぇ』って思ったよ」

 トップレスラーとしての洗練されたファッション、すさまじいほどのオーラに、23歳の藤原は圧倒された。同時に、今も忘れられない猪木の表情がある。

「金子さんが、猪木さんに『こいつだよ』と俺を紹介してくれてな。続けて『お前の若い頃にそっくりだ』と言ったら、猪木さんは、あからさまに嫌な顔したんだよ(笑)。あの顔は、今でも鮮明に覚えてる」

 猪木の表情を見た瞬間、藤原はレスラーとして大成することを決意した。

「俺は『クソ! バカにされてるな』って感じたんだよ。それでスイッチが入ったな。『よーし、今に見てろ』って」

 猪木をいつか振り向かせる、見返すことが、藤原のレスラーとしての目標になった。

【いきなり知らされたデビュー戦】

 猪木との対面を終えた藤原は、そのまま世田谷区野毛の合宿所に行った。新日本の合宿所は、猪木が自宅を解体して道場とともに作ったもの。現在も同じ場所にある合宿所には、藤波辰巳(現・辰爾)、荒川真(後のドン荒川)、小林邦昭らがいた。

「あの頃の合宿所がどんなところだったかって? ひと言で言えば、猿山だよ(笑)。まぁ、いろんなことがあったけど、イチイチ話すとキリがないからな......。要するにメチャクチャってことだな」

 真っ先に声をかけてきたのは荒川だった。

「荒川さんは当時、寮長でな。ただ、俺は顔も名前も知らなかったから、道場の管理人さんだと思っていて。それにしては体が筋肉モリモリだったから、『プロレス道場は、管理人さんも体はゴッツイんだな』って思ったよ。それと『管理人にしては態度がデカイな』ってね(笑)」

 荒川は「ちょっと来い」と藤原を誘った。足を踏み入れたのは、合宿所に隣接する道場。のちに道場で多くの後輩を育て、伝説を築いた藤原が新日本の道場に初めて入った瞬間だった。

「ブリッジをやれ、ベンチプレスをやれって言われてな。ベンチプレスは、いきなり140キロくらい持ち上げてやったんだ。それを見ていた若手レスラーが、『こいつには勝てない』と思ったみたいで、年明けの正月に2人、やめてったよ」

 中学生時代からウエイトトレーニングに励み、金子のジムで寝技の練習を行なっていた藤原の実力は、練習生の枠を超えていた。体格も、身長は180cmを超え、体重も98kgと堂々した肉体が出来上がっていた。

 類まれな才能を持ったスーパールーキーは、入門からわずか10日後の11月12日、「ニュー・ダイヤモンド・シリーズ」の開幕戦となる和歌山県白浜町「坂田会館」大会でデビューする。入門から10日後のデビューは、今でもおそらく団体の最速記録だろう。

「プロレスの巡業に出た最初の日だったな。白浜の旅館に入って山本小鉄さんとすれ違った時、『今日、デビュー戦だから』って言われて。いきなりだったから『えっ?』って驚いたよ」

【初めてリングの上から見た景色】

 入門10日でのデビューは、旗揚げ間もない新日本は選手数が少なかったことも影響しているだろう。ただ、当然プロレスの実力がなければ抜擢されるはずもない。それほど藤原は破格の存在だった。

 試合用のタイツとリングシューズは、入門前に金子が用意してくれていたため、カバンに入っていた。

「金子さんのジムにリングシューズの業者が出入りしてたから、その時に作ったんだ。靴のサイズは28.5。猪木さんと同じなんだよ。だから、のちに猪木さんから靴をいっぱいもらったな。すべて、メイド・イン・イタリーだよ」

 デビュー戦の相手は藤波だった。藤波は、中学を卒業後の1970年6月に日本プロレスに入門。猪木の付き人を務め、師匠が日本プロレスを追放されると行動を共にし、旗揚げから新日本に所属した。年齢は藤原が4歳上だったが、レスラーとしては先輩の藤波の胸を借りることになった。

「試合前は、ただ『やっつければいい』と思っていたよ。ただ、リングに初めて上がったら、やっぱり緊張してな。ライトの光がやたら熱かった。緊張してたから5、6分で息が上がっちまって。あっちはスタミナがあったけど、こっちはスタミナ切れ。何をやったかなんて覚えてねぇよ」

 結果は、11分33秒に逆片エビ固めで敗れた。

「すべてが初めてのことばかりだったから、負けても別に何とも思わなかった。そりゃそうだろ? 第一歩を踏み出してばっかりで、負けて悔しいかって話だよ」

 旗揚げ1年目は、力道山亡き後の日本プロレスでエースだった豊登が参戦していた。デビュー戦で覚えているのは、豊登の言葉だ。

「試合が終わって控室に戻ったら、豊登さんが『お前、初めてじゃないだろ? 国際(プロレス)かどっかでやっていたんじゃないのか?』って言われてな。俺が『初めてです』と答えたら、『嘘つけ! どこかでやっていただろ?』って繰り返し言われて。そのあとに『いい試合だったぞ』ってほめてくれたんだ。あの言葉はうれしかったな。

 猪木さんはどうだったか? なんもなし。反応なしだよ。猪木さんはメインイベンターで社長。デビューしたばかりの若手なんか眼中にねぇよ」

 入門からわずか10日後のデビュー戦を終え、藤原のプロレス人生がスタートした。

(敬称略)

つづく

【プロフィール】

藤原喜明(ふじわら・よしあき)

1949年4月27日生まれ、岩手県出身。1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門し、その10日後に藤波辰巳戦でデビュー。カール・ゴッチに師事し、サブミッションレスリングに傾倒したことから「関節技の鬼」として知られる。1991年には藤原組を旗揚げ。現在も現役レスラーとして活躍するほか、俳優やナレーター、声優などでも活動している。陶芸、盆栽、イラストなど特技も多彩。