2026年が始まり、早くもサッカーが人々の胸を熱くしている。全国高校選手権も、そのひとつだ。神村学園の戦いぶりから浮か…

 2026年が始まり、早くもサッカーが人々の胸を熱くしている。全国高校選手権も、そのひとつだ。神村学園の戦いぶりから浮かび上がった日本サッカーの問題点に、サッカージャーナリスト後藤健生が光を当てる。

■珍しいオープンな攻め合い

 第104回全国高等学校選手権大会で、神村学園高等部が鹿島学園を下して優勝した。実数発表が始まって以来最多となる6万142人の観客も好試合を堪能できたことだろう。

 称賛すべきは「夏の全国高校総体と合わせて『2冠』達成」でもなければ、「21年ぶりの鹿児島県勢の優勝」でもない。本当に称えるべきは、神村学園が攻守のバランスの取れた、素晴らしい試合内容を貫いて優勝したことである。

 彼らはそれを決勝戦だけでなく、大会を通じて貫き通して見せた。

 前線ではトップの倉中悠駕とシャドーの徳村楓大、そして準決勝の貴重な同点ゴールと決勝戦での先制ゴールを決めて得点王に輝いた日高元の3人のアタッカーが流動的に動いて有機的に連動。アンカーの位置からパスをさばく堀ノ口瑛太に、バランスを取りながら攻撃に絡んだインサイドハーフの2人……。

 守っては、今大会ナンバーワンDFの中野陽斗を中心に組織的に守り、両サイドバックの攻撃参加も素晴らしかった。とくに決勝戦では右SBの細山田怜真が、鹿島学園のドリブラー三浦春人と渡り合いながら、何度もパスをインターセプトしてチャンスの芽をつくりながら、タイミング良く攻撃参加。

 左SBの荒木仁翔も後半のアディショナルタイムにパスカットからの持ち上がりで、決定的な3点目のおぜん立てをした。

 敗れた鹿島学園の鈴木雅人監督がコメントした通り、2点リードして残り時間が少なくなっても「時間を稼いだりせずに」攻撃を仕掛けた神村学園の姿勢も称賛すべきだ。

 一方、準決勝では流通経済大学柏を相手に徹底した守備で相手をゼロに抑えて終了間際の急襲によって1点をもぎ取って勝った鹿島学園が、決勝戦では守備的な戦いを選択せずに積極的な姿勢を見せたことも決勝戦を大いに盛り上げた。

 いずれにしても、高校サッカーの決勝戦でこれだけオープンな攻め合いを見たのは久しぶりのような気がする。

■高校サッカーが守備的になる理由

 残念ながら、高校サッカーは“勝利至上主義”的なサッカーが横行する世界である。

 人気スポーツの全国大会で上位に進出することによってその高校の名は全国に知れ渡り、入学希望者も急増する。現代日本の少子高齢化社会において学校経営も厳しい時代に、スポーツで有名になることは学校法人にとっても経営上重要なことだ。

 そのためには、まず全国大会に出場して上位進出を果たさなければならない。高校スポーツの指導者は、そのような使命を帯びて雇用されているのだ。

 しかも、高校サッカーは都道府県大会から全国大会決勝戦まで原則としてノックアウト式のトーナメントで行われる。一発勝負であり、リーグ戦と違ってひとつのミスが命取りとなる。

 そして、ご承知のように全国大会の準々決勝までは80分ハーフ。決勝戦を除いて延長戦なしの、即PK戦という大会方式になっている。

 サッカーは、もともとあまり得点が入らず、番狂わせが起こりやすい競技だ。同時期に行われる高校ラグビーは、競技の特性上、強豪校が確実に勝ち上がってくるので毎年同じような顔ぶれでの優勝争いとなるが、サッカーでは何が起きるか分からない。

 そのうえ、80分ゲームでは弱者側が十分な分析・準備をして守り切り、GKが大当たりしたりすれば、番狂わせが起こる可能性が高くなる。

 そこで、上位進出の可能性を上げるためには、挑戦を受ける立場の強豪校も安全第一の守備的な、リアクション・サッカーを選択する誘惑にかられるのだ。

■日本メディアの悪癖

 しかも、高校サッカーでは、試合内容を論じるような報道はあまりなされない。

 そこにあるのは旧態依然たる“英雄物語”だ。選手たちや指導者の生い立ちや生き様、家族の思いなどを取り上げてナラティブ(物語)を構成し、得点を決めた選手や決定機を止めたGKにスポットを当てて報じられるが、試合内容の分析などは行われない。

 せいぜい、選手個々の評価が行われるだけ。つまり、勝者の素晴らしさを称え、敗者の涙を伝えればいいのであって、勝敗(結果)が非常に重視される。

 かつては、日本のスポーツ報道全体がそうであった時代もあるが、スポーツを観る眼も進化しており、今ではプロ・スポーツの報道では微に入り、細を穿つ戦術分析なども(「戦術論過剰」と思えるほど)多くなった。

 しかし、今でもアマチュア・スポーツ、とくに学生スポーツを巡る報道では、そうした“英雄物語”が主流なのだ。

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