紀藤真琴氏は中京高のセレクションで山田和利氏と遭遇し衝撃 広島時代にエース格として3年連続2桁勝利を挙げた右腕・紀藤真琴…

紀藤真琴氏は中京高のセレクションで山田和利氏と遭遇し衝撃

 広島時代にエース格として3年連続2桁勝利を挙げた右腕・紀藤真琴氏(株式会社EJフィールド代表取締役)は1981年、中京高(現・中京大中京)に進学した。中京・杉浦藤文監督が「全国制覇するメンバーを集める」と言って選んだ選手の一人として硬式野球部に入部し、1年夏からベンチ入りも果たした。1年秋は控え投手ながら、中部大会決勝の愛知戦では「6番・投手」で先発出場。投げては2失点完投、打っては場外弾をかっ飛ばした。

 享栄、名古屋電気(現・愛工大名電)など多くの強豪校から誘われた中、紀藤氏は中京を選択したが、そのセレクションには結局チームメートにならなかった逸材選手がいたという。中京ではなく東邦に進学した山田和利内野手(元中日、広島)だ。「僕は中3の時、(中学の大会の)決勝戦を見たんですけど、その時、和利が出ていたんですよ。上手い子がいるなぁって思ったのを覚えていますよ。だから、セレクションにいった時は“おっ、和利がおるじゃん”って思いましたもん」。

 それだけに山田氏が東邦に行くと知った時は「えーって思いましたよ。だって自分は和利より上手い選手を見たことがなかった。バッティングしかり、中京で一緒にやれたらすごいなって思っていたんでね」と紀藤氏は振り返る。「のちにね、和利に『なんで中京に来なかったの』って聞いたんですよ。そしたら『中京に行ったらレギュラーになれるかわからなかったからさ』って。『何言っているんだよ。お前より上手いヤツはいないよ』って言ったんですけどね」。

 山田氏は1983年ドラフト4位で東邦から中日入り。1991年、広島に移籍して紀藤氏とチームメートになった。1996年、中日に戻って現役引退。その後、中日、広島で指導者としても手腕を発揮した。俳優・山田裕貴氏の父としても知られたが、2025年8月16日に癌のために60歳でこの世を去った。同い年の紀藤氏も寂しい思いでいっぱい。「中京で一緒にやっていたら、ウチはずっと甲子園に行けたと思うけどね」と当時を思い出しながら話した。

 中京高での紀藤氏は控え投手として、同級生の野中徹博投手(元阪急・オリックス、中日、ヤクルト)とともに1年生夏からベンチ入り。「1年生は2人だけ。なので、先輩からの“圧”が大変だったんですよ」と笑う。「生意気だとか言われてね。別に自分が入りたいと思って入ったわけじゃないんですけどね、最初にメンバーが発表された時に嘘だろって思いました。先輩たちがいっぱいいるのに、ってすごく恐縮しましたよ」。

「別にエースになりたいとか、そんな欲は自分にはなかったんですよ」

 上下関係がより厳しい時代。「当時は叩かれるのは当たり前でした。どこの高校も一緒だと思う。まぁ中京が一番ひどかったと思いますけどね」と笑いながら話した紀藤氏だが、そんな試練も乗り越えたようだ。その夏の中京は愛知大会準々決勝で槙原寛己投手(元巨人)がいた大府に2-1で競り勝ったが、準決勝では右腕・浜田一夫投手(元中日)と2年生・彦野利勝外野手(元中日)を擁する愛知に3-9で敗戦した。

 愛知大会を制したのは紀藤氏の小学校、中学校の先輩である左腕・工藤公康投手(元西武、ダイエー、巨人、横浜)がエースの名古屋電気(現・愛工大名電)。工藤投手は夏の甲子園2回戦の長崎西戦でノーヒットノーランを達成するなど、大ブレークした。「工藤さんは練習試合で投げているのは何度も見ました。槙原さんとは対戦して初めて150キロというのを見ました。いやぁ、すげーなって思いましたよ」。

 愛知県下のハイレベルな戦いはその後も続いた。1年秋、紀藤氏は、エース・野中投手に次ぐ、控え投手の立場だった。中京は愛知大会を2位で突破。翌春の選抜切符がかかる中部大会も静岡学園、三重海星、静岡市立を撃破し、決勝は愛知1位でエースが彦野投手の愛知高との対戦になった。そこまでの中部大会はすべて野中投手が完投していたが、決勝戦の先発マウンドには紀藤氏が上がった。

「『決勝戦に先発しろ』って言われて『えっ』って言ってしまったんですよ。野中じゃないのかと思って。重大だなぁって感じで投げたんですけどね」。そこで紀藤氏はきっちり結果を出した。「6番・投手」で出て2失点完投勝利、打撃でも彦野投手から場外弾を放ったのだ。8-2で制して優勝。相手の彦野氏が「隠し玉で紀藤が投げてきたんですよ。球が速くてみんなびっくりしちゃって。紀藤には場外ホームランも軽々と打たれました」と語るなど、まさに衝撃的な活躍だった。

「別にエースになりたいとか、そんな欲は自分にはなかったんですよ。練習試合とかはだいたいダブルヘッダーで、どちらかの試合には必ず投げていましたしね。打者と対戦できるときに全力を尽くそうと思っていただけでしたよ」。ライバルは1学年上の彦野投手だけでなく、同学年には東邦の山田内野手もいたし、享栄には強打の藤王康晴内野手(元中日、日本ハム)もいた。そんななかで紀藤氏も野中投手の陰に隠れる形ながら、着実に力をつけていった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)