2007年6月、当時22歳の新横綱だった白鵬翔さんは、東京・明治神宮で初めて土俵入りを奉納した。 太刀持ち、露払いとと…

 2007年6月、当時22歳の新横綱だった白鵬翔さんは、東京・明治神宮で初めて土俵入りを奉納した。

 太刀持ち、露払いとともに締めた「三つぞろい」の化粧まわしは、白地に金の絵柄。いまの宮城野部屋を興した元横綱吉葉山が、50年以上前に使っていたものだった。

 「私の師匠(元幕内竹葉山)が吉葉山さんの弟子で、私は吉葉山さんの孫弟子になります。(太刀持ちの元関脇)安美錦さん、(露払いの元幕内)龍皇さんと(土俵入り)できたことを、昨日のことのように思います」

 吉葉山は北海道厚田村(現・石狩市)出身で、十両昇進が間近だった1942年、日本軍に召集された。中国などで任務にあたり、偵察中に左の太ももなどを撃ち抜かれるけがを負った。

 終戦翌年の46年6月に帰還。やせ細った体で土俵に復帰し、最高位までたどり着いたときには33歳になっていた。

 白鵬さんは、吉葉山のことを師匠や後援会の人から伝え聞いた。

 「銃で撃たれて、よく、また相撲を取りたいっていう気持ちになったなあ。30歳を超えて体力の衰えもあったと思うけど、心技体っていうんですかね。心の部分の強さがあった。きつい思いをしたからこそ、頂点まで上り詰めたのだと思います」

 横綱土俵入りには雲竜、不知火と二つの型があり、どちらを選ぶのも自由だ。

 白鵬さんが昇進した当時、不知火を選んだ横綱は短命に終わると言われていた。双羽黒や旭富士ら長く綱を張れない力士が続いていたからだ。

 吉葉山の土俵入りは、不知火だった。

 白鵬さんは振り返る。

 「本当に悩みましたよ。(不知火は)嫌だなって。短命で終わるのか、雲竜をやるのか。でもそこで部屋の伝統、吉葉山さんの不知火を選んだ。短命のジンクスを、当時は『俺がなくすんだ』という気持ち。(自身が)長く(約14年間)務めたことで、このジンクスがなくなったと思います」

 15歳で海を渡ってきた。力士として日本で暮らすなかで、戦争と平和について考える時間があった。

 母国モンゴルで、旧ソ連軍と日本の関東軍が衝突したノモンハン事件のこと。戦後、モンゴルに残された日本の抑留兵のことも。

 「ウランバートルの国会議事堂、オペラハウス、大学……。実は日本の方、軍人さん(抑留兵)が作ったと後から知りました」

 終戦記念日の8月15日には、巡業先で黙禱(もくとう)をした。被爆地である広島、長崎にも足を運んだ。

 現役時代に始めた少年相撲の国際大会「白鵬杯」では近年、ロシアから侵攻を受けるウクライナの子どもたちを招待している。

 「戦争から少しでも、1日、1週間でも、2時間でも離れて、ゆっくりしてもらえればいいという思いでした」

 もう一つ理由がある。

 「大鵬さんのお父さんがウクライナ人なんですよね」

 横綱大鵬は、家族がロシア革命で日本に亡命し、樺太(サハリン)で生まれた。大相撲で優勝32度の大記録を打ち立て、引退後は、ウクライナで相撲大会を開くなど両国の友好親善にも尽力した。

 「大鵬さんはウクライナでヒーロー、スターだった。その国から第二の大鵬が誕生すればいいなと思いました」

 引退後に親方を務めた白鵬さんは今年6月、40歳で日本相撲協会を退職した。アマチュア相撲界に転じ、自ら代表となる新会社を設立した。

 「やっぱり相撲が好きですから。外の立場から協力して、応援していく。実際にいま、入門者が少なくなっていますから。(全力士数が一時)600人を切ったと。私の時代は800人近くいたと思う。危機感を感じないといけません」

 企画する新大会「世界相撲グランドスラム」には、相撲を通じて「世界にある差別や偏見を解消したい」との願いを込めている。

 「五穀豊穣(ほうじょう)、神事、あるいはスポーツとして世界の150の国に伝統的な相撲がある。グランドスラムをきっかけに、平和を大会の理念に掲げるオリンピックの実施競技に相撲が入ってほしい。スポーツの力、相撲の力で平和をめざしていきたいと思っています」(鈴木健輔)