【合田直弘(海外競馬評論家)=コラム『世界の競馬』】◆英国で開花したホースマンの原点 英国の元調教師イアン・ボールディ…

【合田直弘(海外競馬評論家)=コラム『世界の競馬』】

◆英国で開花したホースマンの原点

 英国の元調教師イアン・ボールディングさんが死去した。1月2日に遺族が発表したもので、享年87歳だった。

 ボールディングさんは、1938年11月7日に、ポロプレーヤーだったジェラルド・ボールディングさんの子息として生まれた。イアンさんが生まれた当時、父ジェラルドさんは、アメリカの名門ホイットニー家のジョック・ホイットニー氏がオーナーをつとめるポロチーム「グリーンツリー」でプレーしていた時代だった。グリーンツリーの本拠地はロングアイランドで、つまりはイアンさんが生まれた頃、一家は米国在住中で、イアンさんの出生地は米国ニュージャージー州のロングビーチだった。

 第2次世界大戦終了後、ボールディング家は英国に帰国。イアンさんが7歳の時で、彼は英国で教育を受けている。帰国後、父ジェラルドさんはハンプシャーのウェイヒルを拠点に厩舎を開業。彼のために厩舎を購入してくれたのは、ジョック・ホイットニー氏だった。

 マルボロ・カレッジに在学中だった16歳の時に、イアンさんはアマチュア騎手としてデビュー。1955年4月27日に、ザクワイエットマンに騎乗し、ラドロー競馬場で騎手としての初勝利をあげた。

 2年後の1957年、父ジェラルドさんが癌のため他界。厩舎はイアンの兄トビー・ボールディングさんが継ぐことになった。

 アマチュア騎手として乗り続けていたイアンさんにとって、騎手生活のハイライトを迎えたのが1963年だった。ウイリー・スティーヴンソン厩舎のタイムに騎乗し、チェルトナムフェスティバルのナショナルハントチェイスに優勝したのである。これを含め、イアンさんは騎手として65勝をあげた。

 レース騎乗を続ける一方で、ニューバリー近郊のキングスクレアを拠点に開業していたピーター・ヘイスティングス・バス調教師の厩舎で、アシスタントの役割を担っていたイアンさん。1964年6月にヘイスティングス・バス師が亡くなると、厩舎を引き継ぐことになった。イアンさんが、ヘイスティングス・バスさんの娘であるエマさんと結婚したのは、5年後の1969年のことだった。開業から間もない1964年のロイヤルアスコットで、イアン・ボールディング調教師が管理するシリーシーズンが、コヴェントリーSに優勝。新生ボールディング厩舎は華々しいスタートを切った。

 シリーシーズンはその後、デューハーストS、セントジェームズパレスS、チャンピオンS、ロッキンジSなどに優勝。若手調教師イアン・ボールディングの名を高める上で、大きな力となった。イアンさんが厩舎を継いだ時、ヘイスティングス・バス厩舎にはエリザベス女王の所有馬が預けられており、イアンの代になっても預託は続いた。馬主・女王陛下、調教師・ボールディングの関係は、イアンが引退した2002年まで継続されることになった。

 1970年、女王陛下が所有し、ボールディング調教師が管理したマグナカータが、ヨーク競馬場のミュージドラSに優勝。このコンビによる重賞初制覇を果たした。これを皮切りに、このコンビによる重賞制覇は7回を数えることになった。イアン・ボールディングと言えば「この馬」という、代名詞のようになっているのが、1968年生まれのミルリーフだ。

 メロン財閥の3代目であるポール・メロン氏が、ヴァージニア州にもつロークビー・ステーブルで産まれたのがミルリーフだ。アメリカでも馬をもっていたメロン氏だが、ミルリーフはイギリスで走ることになり、イアン・ボールディング厩舎の一員となった。ミルリーフの生涯成績は14戦12勝。2歳時に制したデユーハーストS、3歳時に制した英ダービー、エクリプスS、キングジョージ6世&クイーンエリザベスS、凱旋門賞、4歳時に制したガネー賞、コロネーションCと、12勝のうち7勝は、後のG1競走だった。

 ちなみに敗れた2戦は、後に日本に輸入されることになるマイスワローに敗れた2歳時のロベールパパン賞と、同期の名馬ブリガディアジェラードに敗れた3歳春の英2000ギニーだった。平地で1632勝、障害で123勝の、合計1755勝をあげたイアン・ボールディング調教師は、2002年のシーズンをもって引退。厩舎は長男のアンドリュー・ボールディングが継ぐことになった。

 開業1年目だった2003年、アンドリュー・ボールディング厩舎のカジュアルルックが、英オークスに優勝。父のイアンさんも、当日はエプソム競馬場に来場していた。ウイナーズサークルで、勝利調教師にマイクを向けたのが、ジャーナリストとして活躍していた、調教師の1歳年上の姉クレア・ボールディングさんだったが、感極まったアンドリュー・ボールディング調教師は言葉を発することが出来ず、続いてマイクを向けられた父もまた、言葉に詰まり、ついにはインタビュアーの姉も絶句してしまうという、感動的な光景が展開されたことを、よく覚えている。

(文=合田直弘)