2026年が始まった。蹴球放浪記・後藤健生も穏やかに新年を迎えたが、それもサッカーあってこそ。正月とサッカーの間には、…

 2026年が始まった。蹴球放浪記・後藤健生も穏やかに新年を迎えたが、それもサッカーあってこそ。正月とサッカーの間には、切っても切れない関係があるのだ。

■唯一の天皇杯決勝「欠席」

 さて、僕は、その1968年元日のNHK杯からずっと元日の天皇杯決勝を観戦し続けています。

 おかげで、年末年始は東京にいるしかありません。年末年始に家族旅行に行くとか、スキーに行くとか、温泉に入りに行くということは無縁な人生でした(まあ、好きでやっていることなのですが……)。

 ワールドカップやヨーロッパ選手権はたいてい6月、7月に開催されるので、たとえば夏至の日を海外で過ごすことはしょっちゅうあります。しかし、元日を海外で過ごすということは、これまでにたったの1回しか経験がないのです。

 それは、1981年の正月のことでした。

 1982年にスペインで開かれるワールドカップのアジア・オセアニア第1次予選のグループ4が、1980年12月から翌1981年1月4日まで、香港で開催されたのです。

■定説を覆した選手たち

 天皇杯決勝は例年通り、1981年1月1日に国立競技場で行われ、JSLの強豪、三菱重工(浦和レッズの前身)がJSL2部の田辺製薬を破って優勝しました。

 僕は1965年度の第46回大会で釜本邦茂が4年生だった早稲田大学がJSL王者の東洋工業(サンフレッチェ広島の前身)を破って優勝した試合(1966年1月15日開催)から、毎年欠かさず天皇杯決勝を観戦していますが、この1981年元日の試合だけが唯一の“欠席”となりました。

 ワールドカップ予選のほうは、金田喜稔や木村和司、風間八宏、戸塚哲也といった若手テクニシャンが並んだ夢の中盤が素晴らしい試合を見せてくれました。それ以前は「日本選手はアジア相手でもテクニック的に劣る」という前提の下、走って勝負するしかなかった日本代表でしたが、この大会ではボール・テクニックで中国や北朝鮮を圧倒したのです(ただし、決定力不足のため、準決勝で北朝鮮に敗れてしまいましたが……)。

■入口は「世界で最も危険な空港」

 当時、香港はまだ英国の植民地でした(中国へ返還されるのは1997年)。そして、香港の空港は今とは違って、市街地の真っ只中にある啓徳(カイタック)空港でした(同空港の跡地には、2025年に5万人収容のスタジアムなどのスポーツパーク=啓徳体育園がオープンしました)。

 このとき、僕は大学院時代に知り合ったマカオ人が持っていた高層アパートの一室に泊めてもらっていたのですが、空港にも近い場所にあったので、部屋のベランダに出て眺めていると、本当に着陸しようとする大型旅客機を真横から眺めることができました。操縦席に座っているパイロットの顔まで見えました。

 啓徳空港は都心にあるので世界一便利な空港でしたが、同時に高層ビルが立ち並ぶ中を大型機が発着する世界一危険な空港でもあったのです。

 啓徳空港は1998年に閉鎖され、現在の九龍半島沖にある大嶼山(ランタウ島)に新しく建設された現在の香港国際空港に移転しました。

 香港滞在中には、当時は簡単には入国できなかった中国をのぞきに行ったり、九龍半島を歩き回ったりして楽しみました。また、大晦日には現地の放送でNHKの紅白歌合戦を生中継したのを観ることができました。

 今では、海外でNHKの番組が見られるのは当然のことになりました。いや、インターネットを駆使すれば、世界中のどんな映像でも観ることができます。しかし、当時はまだ日本の番組が海外で見られるのはたいへんに珍しかったので、広東語に吹き替えられた紅白歌合戦を興味深く視聴したのも良い思い出となりました。

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