「プロレス・新日本」(4日、東京ドーム) メインイベントで、エースで社長の棚橋弘至(49)が引退試合に臨み、元ライバル…
「プロレス・新日本」(4日、東京ドーム)
メインイベントで、エースで社長の棚橋弘至(49)が引退試合に臨み、元ライバルで米AEW所属のオカダ・カズチカ(38)に33分3秒、レインメーカーからの片エビ固めで敗れた。新日本の低迷期から再興をけん引した“100年に一人の逸材”は、最後に4万6913人超満員札止めの絶景を見届け、26年間にわたるプロレスラー人生に終止符。その原点には立命館プロレス同好会(RWF)で過ごした4年間と仲間たちの存在があった。
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あふれる涙の理由を誰も知らなかった。棚橋は2012年2月の大阪大会で凱旋帰国したばかりのオカダにIWGPヘビー級王座を奪われる“レインメーカーショック”に見舞われたが、同6月の大阪大会で奪還。「なぜかバックステージで号泣してね。(周囲は)訳が分からなかったと思うけど」(棚橋)。それは、この世を去ったばかりの大阪の旧友を思ってのものだった。
1995年4月、棚橋は立命館大に入学し、すぐにプロレス同好会(RWF)に入った。法学部のクラスで卒業後の目標を順番に言う際「プロレスラーになる」と宣言し、他の学生をあぜんとさせた。でも本気だった。トレーニング室では体育会所属のアスリートに負けじと重量を挙げ、独学で栄養学も学び、当初65キロだった体重は90キロまで増加。「ハメ浩」「ターナー・ザ・インサート」といったリングネームで当時から団体のエースとして活躍し、ライバル団体DWAのエース「ギブアップ住谷」(現レイザーラモンHG)や「ミスチ・ルッテン」らと学園祭興行などで名勝負を繰り広げた。
当時の棚橋について「いい意味でアホ」というのが仲間たちの共通見解。明るく真面目で華もあるが、抜けているところもある。スーパーのレジ打ちのアルバイトをしていた際、客が来ないからと隠れてトレーニングしていたところを見つかり、クビになった逸話もある。1年先輩の「チン先真性」ことレイザーラモンRG(51)らと夜な夜な海外プロレスの海賊版VHS(通称・裏ビデオ)を見たり、関西圏のプロレス興行を観戦したり、コンパで筋肉を誇示したりとプロレス漬けの青春時代を謳歌(おうか)した。1999年10月10日後楽園ホールでのデビュー戦や、2002年に棚橋が刺傷事件に遭った際などにも駆けつけたのはRWF時代の仲間だった。
棚橋とは対照的に、実直に会長として団体をまとめていたのが同期の「シヴァ・トシオ」こと松原俊夫さんだった。同期の田口真丈さん(49)は「棚橋は当時からチャラかったから会長になる器はなかった(笑)。松原はしっかりしていて、卒業後は商社に就職した後、教員になった」と明かす。
再就学して大阪で教員になった松原さんの存在は当時、新日本のエースとして再興を目指していた棚橋にとっても心の支えとなっていた。ただ、そんな親友を病魔が襲った。がんだった。レインメーカーショック直後の12年春、忙しい合間を縫って松原さんを見舞った棚橋は、仲間とともにカラオケ店に入った。「俺もプロレスを頑張るから、おまえも頑張れよ」。そう励ましたが、死期を悟った松原さんは突然言った。「最後にかなえたい夢がある。もう一度、棚橋とチョップ合戦がしたい」。上半身裸になると、「打ってこいよ!」と胸を差し出してきた。棚橋も裸になって、親友の痩せ細った胸に手のひらを打ちつけた。お互いの目には涙があふれ、チョップの衝撃で床に飛び散った。
「シヴァ(松原さん)は昔は棚橋よりゴツくってデカかったけど、ガリガリになっちゃって。お互いが泣きながら本気でチョップを打っていた。後から聞いたら、シヴァは『棚橋のおかげで頑張れる』と言っていました」(田口さん)
涙のチョップ合戦から約2週間後の12年4月17日、松原さんは37歳の若さで帰らぬ人となった。直後に大阪で王座奪還を果たしたエースの涙は、病気と2年半戦い抜いた親友への弔いだった。
数年後、RWFの仲間で松原さんの墓参りをしていた際、棚橋は「俺、新しい目標をつくった。新日本の社長になるよ」と墓前でつぶやいたことがあった。田口さんはその光景が焼きついて離れないという。「膝が悪くて『そんきょがしにくい』と言って、『ベルトに挑戦できなくなったら引退する時』と言っていたけど、新しい目標ができたってお墓の前で約束したんですよ。棚橋本人は覚えていなかったけど、その何年後かにほんまに社長になって、約束を果たしたんやなと思いました」
涙のチョップ合戦から14年。当時ライバルだったオカダとの引退試合を迎えた。「(松原さんも天国で)見てくれていると思うんだけどね」(棚橋)。涙もろく仲間思いで、人を楽しませることが大好きなエースの原点は、同志と好きなものに全力で打ち込んだ「青春」を絵に描いたような濃密な4年間にあった。