<新日本プロレス:WRESTLE KINGDOM20 in 東京ドーム 棚橋弘至引退>◇4日◇東京ドーム◇観衆4万691…

<新日本プロレス:WRESTLE KINGDOM20 in 東京ドーム 棚橋弘至引退>◇4日◇東京ドーム◇観衆4万6913人

新日本プロレス一筋で団体をけん引してきた棚橋弘至(49)が、ついにリングを去った。1999年(平11)10月10日にデビューして以来、26年と87日。引退試合でオカダ・カズチカ(38)と対戦し「33分3秒」の死闘の末、レインメーカーで力尽きた。それでも最後まで必死に勝利を目指した“100年に1人の逸材”に満員札止め4万6913人のファンは大興奮。棚橋も「愛してま~す!」と感謝の気持ちを伝えた。

   ◇   ◇   ◇

棚橋が、少し考えた。「疲れましたか?」と質問されると「う~ん」と、うなってから「今、言っとかないと一生言えないと思うんで、言います。あ~疲れた! 12年から14年間、疲れたと言わなかったストックがあるので」と笑った。

その「疲れない男」にしたオカダが最後の相手だった。12年に「棚橋さん、あなたの時代は終わりです」と挑発され、棚橋は「悪いなオカダ、俺は生まれてから疲れたことがないんだ」と返した後輩と、魂をぶつけ合った。社長業との兼務で体が悲鳴を上げても、やられてもやられても立ち上がった。おきて破りのレインメーカーをさく裂させ「新闘魂三銃士」として高め合った柴田勝頼のPK、中邑真輔のボマイェまで繰り出して勝ちにこだわった。

最後はレインメーカーでリングに大の字となり、その技名を冠した12年の大敗「ショック」の借りを返せなかったが、左膝に初めてライオンを入れ、新日本プロレス史を体現して、選手生活にピリオドを打った。

アントニオ猪木以降、最大の功労者だ。00年代の前半にPRIDEやK-1の格闘技に人気面で押され、橋本真也や、師匠でもある武藤敬司も退団。じり貧となっていった。その低迷期と並走し、愛され、新しい風を吹き込んだ。ド派手なコスチュームに長髪の“チャラい”姿で「愛してま~す!」と叫び、エアギターや握手等のファンサービスを徹底。代名詞ハイフライフローなどの華麗な技でプロレス会場にファンを呼び戻し、V字回復させた。

「名店の名物料理と同じで、新日本に行ったら棚橋のハイフライを見られるんだ、みたいな」。膝がボロボロでも、ファンに「痛み」を感じさせる、昭和のスタイルを変えなかった。コロナ禍の21年には後楽園に396人しか集まらず、涙で「忘れない」と誓った夜からドームを埋め返した。

人望を示すように、引退セレモニーには柴田や内藤哲也、オスプレイに“天敵”ホワイト、大腿(だいたい)骨を骨折中の飯伏幸太も、足を引きずりながら来場した。今後、社長業に専念する男は「完全燃焼、やり切りました」と叫んだ。「僕はプロレスファンになって人生が1000倍、楽しくなった。これからも、同じように知らない人に知っていただいて『楽しくなった』と、そういう人が1人でも増えるように全力で頑張っていく」。新日本の太陽が、次代を照らす夢へ歩き出した。【千葉修宏】

◆棚橋弘至(たなはし・ひろし)1976年(昭51)11月13日生まれ、岐阜・大垣市出身。大垣西高では野球部、立命館大ではプロレス同好会に所属。学生時代からプロレスラーを志し、3度目の入門テストで合格した後、大学卒業後の99年4月に新日本プロレス入門。同年10月にデビューした。06年にIWGPヘビー級王座初戴冠。09年、11年、14年、18年にプロレス大賞MVPを獲得するなどエースとして団体をけん引した。19年にはIWGPヘビー級王座最多戴冠記録(8回)を樹立。23年末に選手兼任で社長に就任した。181センチ、101キロ。

◆棚橋とオカダ レインメーカーショックを経てオカダが新時代のエースとして台頭した後も、棚橋は長きにわたりトップ戦線でオカダと激闘を繰り広げた。2人の「黄金カード」が新日本が暗黒時代を脱し、V字回復を果たす原動力に。18年には、共通の敵であるバレットクラブのジェイ・ホワイトらと対峙(たいじ)する中で、棚橋が求めた握手にオカダが応じる“歴史的な”出来事があった。 オカダは「あの握手の意味は“友達”。棚橋さんに初めて友達ができたんじゃないかなと思います」と発言し、単なるライバル以上の関係性も示された。24年1月にオカダが新日本退団を発表。オカダは同年2月11日の大阪大会で棚橋に勝利した後「やっぱりレインメーカーっていうのは棚橋さんあってのレインメーカーだったと思う」「本当に棚橋さんの、新日本プロレスの誇りになれるよう、また次も進んでいきたいな」などとコメントしていた。