東都大学野球では史上唯一3冠王と歴代1位の通算24本塁打を記録 ロッテ新監督に就任した井口資仁は、青山学院大から1996…
東都大学野球では史上唯一3冠王と歴代1位の通算24本塁打を記録
ロッテ新監督に就任した井口資仁は、青山学院大から1996年ドラフト1位で福岡ダイエーホークス(現ソフトバンク)に入団した。大学時代の1994年秋季リーグ戦では8本塁打、16打点、打率.348で、東都大学野球史上唯一の3冠王を獲得。通算本塁打24本も歴代1位という大学屈指の強打者で、即戦力として期待されていた。
当時ダイエーを率いた王貞治監督は、1年目の5月から井口をスタメン遊撃手で起用した。2番、8番、9番などで使ったが、1年目は8本塁打したものの打率.203と低迷。2年目は正遊撃手として135試合にフル出場したたが、21本塁打、打率.221、121三振に対して四球はわずか28と、当初は荒っぽい打者だった。
2001年、二塁にコンバートされるとともに打率は初めて2割5分を超え(.261)、30本塁打97打点に加え盗塁王を獲得。我慢して起用し続けた首脳陣の期待にようやく応えた。ちなみに、この年から登録名を本名の「忠仁」から「資仁」に変えている。
リーグ屈指の強打者になった井口は、2004年オフにMLB挑戦を表明し、ホワイトソックスに入団した。1年目から正二塁手として活躍し、ワールドシリーズ優勝に貢献。2006年4月15日のブルージェイズ戦では、打球を倒れ込みながら捕球し、空中で体の向きを変えて送球するという超絶スーパープレーを見せて話題になった。しかし、2007年途中にフィリーズにトレード移籍して以降は成績が上がらず。出場試合数も減り、2008年を最後に日本球界に復帰した。
日本からMLBに挑戦したのは31歳、ロッテと契約して日本復帰したのは35歳の年だった。すっかりベテランの域に達した井口は、ダイエー時代とは違った選手になっていた。
米球界を経て、四球を選ぶ選手に変貌
ダイエー時代のK/BB(三振数を四球数で割った数値)は0.42、中心打者として三振を恐れず積極的に打って出る打者で、四球は少なかった。しかし、ロッテでのK/BBは0.69と相変わらず三振は多かったが、四球も選ぶ、貢献度の高い選手に変貌していた。
これはMLB時代に中心打者ではなく、2番や下位を打つことが多く、つなぐ野球、塁に出る野球を覚えたことが大きいと思われる。野球を見る目が深まったのだろう。
ロッテでの井口は「4番・二塁」で打線の核となるとともに、若手選手を引っ張るリーダーとなり、多くの選手に手本を示した。特に、2010年にKBO(韓国プロ野球)から鳴り物入りで入団した金泰均(キム・テギュン)には大きな影響を与えた。投手の配球の違いから打撃不振に苦しんでいた金に、井口はじっくりと球を見極めることを教えた。この年のロッテは3番井口、4番金の打線で“下剋上”を果たし、日本一に輝いている。
○井口資仁の日本球界での成績
【ダイエー】
894試合 3175打数860安打149本塁打507打点159盗塁321四球 打率.271
【ロッテ】
1020試合 3332打数898安打101本塁打508打点17盗塁457四球 打率.270
本塁打は減り、盗塁もほとんどなくなったが、打点はほとんど変わらず、四球は増えた。バットをブンブン振り回す威勢のいい若武者は、MLBでの武者修行を経て円熟味ある古武士の風格を持つ名選手へと変貌したのだ。
ダイエー、MLB、ロッテと3つの「野球人生」を生きて、井口は広い「野球の視野」を得た。選手から即監督就任、というルートには危惧を示す人もいるが、多くの引き出しからいろいろな知恵を取り出して、チームを立て直すのではないか。(広尾晃 / Koh Hiroo)