サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は、忙しかった正月の記憶。

■7回目の「元日開催」

 年末の訪れとともに寒波がやってきた。12月26日、東京は朝から北西の風が強く、昼過ぎから気温が急速に下がって夕方には5度を切った。まさに「身を切るような寒さ」だった。そして日本海側から関東北部の山間部にかけて急激に雪が積もり、群馬県の関越自動車道ではトラックのスリップをきっかけに67台もの車が追突するという大事故まで発生した。

 その寒さの中、思い出したのが、私が『サッカー・マガジン』の編集スタッフになって2年、1975年の1月の寒さだった。

『サッカー・マガジン』にとって、この正月はなかなかの忙しさだった。元日には東京の国立競技場で恒例(といっても7回目だった)の天皇杯決勝があった。「ヤンマーディーゼル(現在のセレッソ大阪)×永大産業」というフレッシュな顔合わせとなったが、1-1で迎えた後半22分、吉村ネルソンからパスを受けた釜本邦茂がゴール右の角度のないところからGKの頭上を破る豪快なシュートを決め、ヤンマーが2回目の優勝、そして日本サッカーリーグ(JSL)との2冠に導いた。

 高校選手権は1月3日に開幕するのだが、当時はまだ関西で開催されており、その担当は毎年京都出身の先輩ということになっていた。だから私はこたつに入ってテレビで試合を見るだけだった。

■「皇帝がやって来る!」

 ところが、この年の正月にはとんでもないビッグイベントが待ち構えていた。「こたつで高校サッカー」どころではない。バイエルン・ミュンヘンの来日である。前年の1974年ワールドカップで優勝した西ドイツ代表チームの中核選手たちが所属するクラブ。中でも西ドイツ代表の主将であり、「皇帝」のニックネームをほしいままにしたフランツ・ベッケンバウアーは、オランダのヨハン・クライフと並んで当時世界最高の選手だった。

 ベッケンバウアーだけではない。ワールドカップ決勝戦で決勝ゴールを挙げ、その晩に西ドイツ代表からの引退を宣言したゲルト・ミュラー、世界一のGKゼップ・マイアーなど、バイエルンは信じ難いほどのスターぞろいだった。

 後に世界的なスーパースターとなるカールハインツ・ルンメニゲはこのとき19歳。バイエルンではほとんど1軍の試合に出場した経験はなかったが、スピードがあるのを買われ、将来性を期待されてこの遠征に連れてこられていた。日本に向けて出発しようとしたミュンヘン空港で、そのルンメニゲがベテラン選手から「お前、誰?」と聞かれたという話も伝わっていた。

■費用は「現在の1億円」相当

 バイエルンは1月4日朝に羽田空港に降り立つと、寒風をついてその夕刻に代々木公園内の「織田フィールド」で汗を流し、翌5日とその2日後の7日に国立競技場で日本代表と2試合をこなすと、その晩にミュンヘンに向かって飛び去った。試合はいずれも1-0でバイエルンの勝利だった。この2試合でバイエルンに支払われたギャラは、『サッカー・マガジン』3月号で牛木素吉郎さんが書いた記事によれば3000万円だったという。現在の価値に直して1億円ほどだっただろうか。

 そして『サッカー・マガジン』は、あろうことか、この2試合の速報を、1月13日発売の「2月号」に巻頭カラーから全30ページを割いて大特集したのである。通常の年であれば、元日の天皇杯決勝を速報するのが精いっぱいだった。当時の正月は3日までまったく仕事は始まらない。その中で元日の夜にカラーフィルム現像所に特別出勤してもらい、2日と3日で編集作業をして入稿し、4日に仕事を始める印刷所に入稿して、発売日にぎりぎり間に合うという日程だった。それを7日の試合まで入れるというのである。印刷所も大変だっただろうが、編集部もフル稼働だった。

 ベッケンバウアーの「独占インタビュー」も敢行した。1月5日、第1戦の後の夕刻、宿舎の東京プリンスホテルに部屋を借りてのインタビューである。ベッケンバウアーから許されたのはわずか30分間。通訳をしているヒマなどないから、『サッカー・マガジン』でドイツ語の翻訳をしてくれていた東田龍男さんに質問項目を渡し、矢継ぎ早に質問して答えてもらうという形をとって4ページの記事をつくった。

■ベッケンバウアー < アイドル

 私は企画担当者としてその場に同席し、インタビューが終わった後、ベッケンバウアーにお礼として大きな日本人形を贈る役割だった。東田さんや他のスタッフはインタビュー後にその場でベッケンバウアーにサインをもらっていた。私といえば、大のサッカーファンながら、『サッカー・マガジン』で仕事を始めた21歳のときから「サッカー選手からはサインをもらわない」という主義を貫いており、このときも握手したり、英語で短い会話はしたものの、それだけだった。

 ところが…。このインタビューが終わって部屋を撤収し、階下に降りようとエレベーターに乗ると、そこに小さな帽子を被った若い女の子が乗っていたのである。当時、人気絶頂の香港人(ということは英国国籍)アイドル、アグネス・チャンだった。私は思わず脇にかかえていた取材ノートの最終ページを出し、サインをねだっていたのであった。

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