サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マ…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は、忙しかった正月の記憶。
■「新幹線の弱点」を直撃!
試合が終わると予約してあったタクシーに飛び乗り、飛ぶように柳井駅に戻った。その日のうちに岡山に着くには、決めてあった電車を逃すことができなかったのである。
そして翌日の早朝、私たちは岡山から新幹線に乗り、名古屋に向かった。キックオフは午後1時である。トヨタスポーツセンターは名鉄の三好ヶ丘駅が最寄り駅であり、そこから15分間ほど丘を登ったところにあった。10時過ぎには名古屋に着いておきたい。ところが…。
寒波はついに雪となってしまったのである。京都あたりから降り始め、「新幹線の弱点」と言われていた関ケ原あたりは大雪だという。そのため全列車が徐行運転となり、ノロノロとしか進まない。1時間半以上遅れ、名古屋に着いたのは11時半を過ぎていた。すでに雪はやんでいたが、名古屋も真っ白だった。キックオフまで1時間半しかない。私たちは即座にタクシーで行くことを決断した。そして、なんとか12時半にトヨタスポーツセンターに到着した。
■急いだのに「まさかの事態」
再び、ところが…。
試合が行われる陸上競技場は、真っ白な雪に埋まっていたのである。そこでは、何十人もの人々がせっせと雪かきをしていた。聞くと、除雪が終わってから試合をするという。あんなに慌てて来る必要はなかったのである。
愛知県では、この日、1月13日を迎えた頃から雪が降り始め、明け方に激しくなって午前11時ごろまで降り続いたという。名古屋市内で15センチもの積雪があった。トヨタスポーツセンターは名古屋の東の丘陵地帯に位置し、積もり方はさらに激しかったに違いない。雪がやんでからチーム関係者、そしてトヨタスポーツセンターの職員、そしてトヨタ自工の選手たちまで総出で除雪作業を始めたのだが、まだほんのわずかしか完了していない。数時間はかかりそうだ。
今井さんと私はメインスタンド上部のグラウンドを見渡せるティールームでキックオフを待つことにした。上がっていくと、そこには読売クラブの選手たちがいた。
■ジョージ与那城を軸に「初優勝」
現在の東京ヴェルディの正式名称が「東京ヴェルディ1969」であることでわかるように、読売サッカークラブは1969年に設立され、当初から「プロ」を目指すクラブだった。多摩丘陵に広がるよみうりランド内にサッカーグラウンドと専用のクラブハウスをつくり、学生やサッカーで生きていきたいという若者を集めて急速に強くなり、1972年に新しくできたJSL2部の最初のメンバーとなった。
監督はオランダ人のフランス・フォン・バルコム。ブラジルからやってきた日系2世のジョージ与那城を軸に攻撃的なチームをつくり、JSL2部1年目は10チーム中7位だったが、2年目には3位に上がり、3年目の1974年には18戦して11勝4分け3敗、得点46、失点20という圧倒的な成績で初優勝。ついにJSL1部昇格のチャンスをつかんでいた。
JSL2部で優勝した後に初出場した天皇杯では、3回戦で1部の藤和不動産と対戦し、2-3で敗れたものの、互角に近い力を示していた。対するトヨタ自工は、JSL1部で3勝2分け13敗、18試合でわずか8得点に終わっていた。読売が攻撃力を発揮して1部昇格を果たすのではないかと予想されていた。
■読売と「企業チーム」の違い
後に日本代表や日本選抜に選ばれるMF小見幸隆、MF橋本好章、FW岡島敏樹らのアタッカー陣とともに、サイドバックとしてバルコム監督が将来を嘱望していた松木安太郎といった選手たちは、これまでの日本のサッカーとは異質な自分たちのチームに大きな自信を抱いており、ときにそれは「不遜」なほどの試合態度となって表れていた。松木は当時まだ17歳で、堀越学園高校の2年生だった。
しかし読売が他の「企業チーム」と最も違ったのは、サッカー自体ではなく、自由な雰囲気だっただろう。彼らは「サッカー好き」ということだけが共通点の仲間で、年齢の違いはあっても上下関係はなく、また、「会社員としての規律」にも縛られていなかった。
トヨタスポーツセンター最上階のティールームにいた読売の選手たちは、まさにそうした自由な若者たちの集団だった。明るい窓越しに彼らが見下ろすピッチ上では気温2度の寒風の中、トヨタの選手たちが汗だくになって除雪作業に取り組んでいた。しかし、その選手たちと対戦する読売の選手たちは、コーヒーを飲みながら冗談ばかりの話に大笑いしているのだ。