サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は、忙しかった正月の記憶。

■驚きの才能を育てた「外科医」

 1975年は、そんな正月であり、冬だった。そして1日休むと、私は、フリーランスカメラマンの今井恭司さんと取材の旅に出た。

 主目的はJSLの入れ替え戦だった。カードは「永大産業(1部9位)×富士通(2部2位、現在の川崎フロンターレ)」、そして「トヨタ自工(1部10位、現在の名古屋グランパスの前身)×読売サッカークラブ(2部優勝、現在の東京ヴェルディ)」。初戦は1部ホーム、第2戦は2部ホームとされた。そして永大のホーム、山口県の平生(ひらお)町で1月12日(日)、トヨタ自工のホーム、愛知県のトヨタスポーツセンターで翌13日(月)にそれぞれのカードの第1戦が行われることになった。その2試合の取材が、私と今井さんの取材旅行の主要なテーマだった。

 しかし2試合の取材の前に、私は大阪の枚方(ひらかた)市で近江達(おうみ・すすむ)さんの取材を入れることにした。近江さんは神戸で生まれ育ってサッカーに親しみ、京都大学で選手として活躍した人だった。賀川浩さんによれば、なかなかの名手だったという。枚方市の病院に外科医として勤務しながら、地元香里団地の少年たちにサッカーを教えるようになり、1973年に枚方サッカークラブを設立。またたく間に全国のサッカー指導者たちが驚く、才能あふれる少年たちを育てた。

■藤枝東高校の「名監督」の後任に

『サッカー・マガジン』ではそれまで2年間にわたって藤枝東高校の名監督・長池実さんの「サッカー教室」を連載していたが、その後の「技術もの」の連載筆者として私が近江さんを強く推薦し、1975年の1月号から3回にわたって「少年サッカーをもう一度考えよう」というエッセーを短期連載、5月号から「新・サッカーノート」の長期連載を始める予定だった。その連載に向け、近江さんとはどういう人か、枚方サッカークラブとはどんなクラブなのかを、今井さんの写真とともに紹介するルポルタージュを企画したのだ。

 1月10日に東京を出発してその日と翌日に枚方で取材、11日には新幹線で岡山まで移動して宿泊し、12日に岡山から山口県の柳井を往復してJSL入れ替え戦の「永大×富士通」を取材、13日は岡山から名古屋に移動して「トヨタ×読売」を取材し、そのまま東京に戻る計画だった。

 ただし私は翌14日に休みをもらい、新幹線を静岡県の三島で下車して沼津に住む友人を訪ねることにしていた。「友人」と言っても学生時代に大変お世話になった先輩で、当時は沼津でスポーツクラブの運営に携わっていた。

■日本サッカーの「希望の光」に…

 枚方サッカークラブでは、当時中学1年生だった佐々木博和(後に松下電器、ヴェルディ川崎、セレッソ大阪)のプレーに文字どおり度肝を抜かれた。近江さんはかねてから「日本人は白人よりも個人技がうまくなれるはず」と公言していたが、その明確な証拠が佐々木だった。彼のような「天才」が何人もいたわけではない。しかし枚方の少年たちは例外なく見事なボール扱いと身のこなしを身につけ、しかも誰もが自分の頭で考えながらプレーしていた。地面に図を書いて練習の手順を説明すると、あとは何も言わずに、寒風のなか、近江さんはじっと少年たちの動きを見守っていた。

 少年たちの見事なプレーは、もちろん近江さんの独創的なトレーニングの賜物だった。「指導次第でこれだけできるようになる」―。それは、1968年のメキシコ・オリンピック以来低迷していた日本のサッカーにとって間違いなく「希望の光」になる集団だった。薄暗くなった小学校の校庭で黙々とプレーに取り組む少年たちを写した今井さんの写真も素晴らしく、グラビア5ページのルポルタージュは完成度の高い記事となった。

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