<寺尾で候>日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。   ◇   ◇   …

<寺尾で候>

日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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12月30日は、阪神タイガース史に勃発した「藤村富美男排斥事件」が“手打ち”となった日だった。阪神は球団創設90周年を機に「藤村富美男監督退陣要求書」を公開し、甲子園歴史館で一般展示した。

1956年(昭31)11月から年末にかけ、監督だった藤村富美男に対し、選手たちが解任を求め、球団側と対立した。12人の中心選手が母印を押した連判状を「退陣要求書」として球団側に提出したのだ。

内紛劇の中心人物だった藤村の長男・哲也と長時間にわたって向き合った。すでに甲子園から住まいを地方に移したご子息は、今回一般公開された件を知らなかった。

この連判状が球団内で保管されているのは前々から把握していた。いつか各方面、関係者に理解を求め、事件の背景にあったできるだけの説明をしながら公表すべきと思っていた。

そこには、主将の金田正泰を先頭に、エースだった真田重蔵、名内野手の白坂長栄、ポスト藤村の4番だった田宮謙次郎から、若手の吉田義男、三宅秀史、小山正明らが名を連ねた。

藤村富美男退陣要求書

「我々拾弐名は過去一ヶ年半優勝目的に藤村富美男監督のもと寝食を共にし、努力邁進して来ました。しかしその人間性を細部にわたり検討したる結果、来年度公式戦に藤村富美男監督の指揮下に入り、行動する事は出来ません。依て藤村監督の退陣を要求します」

選手兼任監督の藤村には「打てそうな投手の時しか出場しない」「勝った手柄を全部もっていく。負ければ選手に責任転嫁する」と思わしくない声が上がった。契約更改では基準の藤村が球団の言いなりでサインし、他の選手の給料が上がらず不満が渦巻いた。

もともと藤村はワンマン体質で、主力の金田と反りが合わなかった。6月の国鉄戦で藤村がベンチ内で金田を叱りつけて亀裂は決定的になったようだ。そこで11月上旬、金田の自宅に田宮らが集結し、藤村退陣を求める決起集会を開くのだった。

当の藤村は、いかなる心境だったのか。そして連判状に署名し、指印を押した選手たちは何を思ったか。連判状の写真を差し出すと、哲也は「知りませんでした」とつぶやいた。

長男・哲也は、社会人野球の都市対抗に選手で2回、本田技研鈴鹿監督として6回出場し、ベスト4にも進出した。息子・一仁、賢も甲子園出場。また富美男の次男・雅美は、育英高(兵庫)監督で甲子園で指揮、息子・光司も出場。さらに富美男の実弟・隆男も阪神の主力選手だった。

野球人として育った哲也は、父親が排斥事件を示唆するような話をこぼしていたことを明かした。すでに一連の関係者は鬼籍に入っているから貴重な証言といえるだろう。

「うちの父親は給料について『おれからいくらほしいと言ったことはない』と話してましたね。今でも覚えていますが『金田、田宮の2人は、藤村の給料が上がらんかったら、自分たちも絶対上がらんと、それが一番根本にあるんと違うか。藤村は良いところを全部持っていくと思ったんやろうな』と打ち明けていました」

連判状の存在を知らなかった哲也は「おやじが金田さん、田宮さんの2人の名前を挙げたのははっきりと覚えているので、この連判状の写真を見せてもらって“やっぱりそういうことだったのか”と思い当たりました。球団代表だった戸澤(一隆)さんのこともいい話を聞いたことがありません」と言う。

「ただ私も社会人監督まで務めましたから、うちのおやじがワンマンだったと言われても仕方がないと思います。チャンスに『代打オレ』と自分が出ていって打ったのも確かでしょう。プレーイングマネジャーでしたからね。うちの父親の話を思い出していくとね、うちのオヤジってのは、ただがむしゃらにね、突き進んでいくというか、そんなタイプでしたから。まず駆け引きはせん人でした。だからわがままとかなんとか言われたかもしれませんが、代打にしても『おれしかいない』と思ったはずです」

球団側は、金田、真田らを解雇したが、反藤村派は態度を硬化し、以後、球団の懐柔策は約50日間に及んだ。金田らの現場復帰によって年末の12月30日に全選手が契約更改を終え、内紛劇に終止符が打たれる。藤村も留任となった。

哲也は「ひとつだけ言えるのは、タイガースのためと思っていた、それだけは確かです」と力説する。忌まわしい歴史は引き返せないが、“初代ミスタータイガース”の称号を誇った功労者である事実に変わりはない。

 (つづく、敬称略)