2024年11月30日、ヤマハスタジアム。試合終了を告げるホイッスルが鳴り響いた。 視界の端で、ゴール裏の青が揺れてい…

2024年11月30日、ヤマハスタジアム。

試合終了を告げるホイッスルが鳴り響いた。
視界の端で、ゴール裏の青が揺れている。

耳の奥では、割れんばかりの歓声が反響しているのに、不思議と音が遠くなる。
横に立っていた上原力也が、半歩、こちらに寄ってきた。何も言わないまま、抱き合う。

「もう、あれ以上の試合は絶対ない。ヤマハでの最後の試合は、あのゲームのままで残しておきたい」――後日、引退試合のオファーをきっぱりと断るほどの、90分。

しかし、この「終わり」は、18日前にはまったく想像していなかった――。

(サッカー選手に必ず訪れる別れの時――山田大記とサックスブルーの最後の18日間@JUBILO IWATA)

12月、別れの季節

12月は、Jリーガーとサポーターにとって、特別な意味を持つ月だ。

11月末から始まる契約更改。多くの選手がクラブに別れを告げる。
中には、サッカーそのものに背を向け、全く別の世界へと歩み出していく者もいる。

引退を決めた選手は、残った時間をどう使うのか。

2024年の冬、ひとりのベテランがスパイクを脱いだ。現在はジュビロ磐田のCRO(クラブ・リレーションズ・オフィサー)を務める山田大記。彼が過ごした“最後の時間”とは――。

2年前――身体に訪れた予兆

山田大記、35歳。明治大学からジュビロへ。一度、ドイツ・ブンデスリーガ2部カールスルーエSCでも光を浴び、再びヤマハスタジアムへ。14年のプロ生活の大半を、磐田という街とともに過ごしてきた。

2024年シーズンを迎え、キャリアも晩年だという自覚を深めていた。はじまりは、2年前、2022年5月に負ったけがだった。

プロ1年目に骨折した箇所での再発。しかも「折れることはない」と言われていた固定ボルトごと、折れた。前例の少ない症例に治療法を模索し続け、なんとかピッチへ戻れたのはシーズン終盤になっていた。その時から、初めて「身体の限界」を意識するようになった。


翌2023年も、肉離れが続いた。常に80%の力しか出せない自分に、もどかしさを抱え続けていた。

(全力を出せない歯がゆさ。身体との対話が、引退への予兆を告げる@JUBILO IWATA)

半年前――気づいた“限界”

2024年夏。何年かぶりに、けがなく迎えたシーズンだった。良いコンディションでピッチに立つ時間も延びた。——しかし、ピッチの中で膨らんでいったのは、「まだやれる」という手応えではなく、逆の感覚だった。

「取られない」と思って取られる。局面で、勝てない。

最初は「あれっ」と思った。自分の判断では「行ける」はずのチャレンジで、DFに引っ掛かる。けが前でのJ1や前年のJ2では感じなかったズレが、今年ははっきり出た。

その回数が重なるうち、プレー選択が無意識に変わっていった。リスクを冒して縦に運ぶのではなく、「取られない」ことを優先するタッチ、無難なパス――。安全な選択をしてしまう自分に気づくたび、ショックを受けた。

攻撃的な選手であるがゆえに、その変化は致命的だった。ボールを受ける前の準備、周囲を動かす指示、判断を一つ早くすること……。「頭を使うプレー」でまだ違いを出せる感覚はあった。

しかし、山田には信念があった。

チームの中心でやる選手っていうのは、目の前の相手に一対一で勝てる選手――。

スポットで流れを変えることはまだできる。しかし、90分間ピッチのど真ん中に立ち続け、「中心」としてゲームを支配することは、もう難しい――それは山田に、アスリートとして上を目指す戦いが終わったことを告げていた。

(いつしか守りに入ってしまう自分。無意識の選択が、限界を教えていた@JUBILO IWATA)

定めた“引退基準”

"己のさらなる上を目指す"——その行為そのものが、山田にとって何よりも楽しい挑戦だった。

逆に言えば、そのチャレンジが終わった世界で、ただ「下り坂を緩やかにする作業」を続けることに、心はどうしても躍らなかった。

しかし、例外が一つだけあった。ジュビロ磐田だ。

自分のサッカー人生をつくってくれたこのクラブ。このチームのためになら、たとえ中心でなくとも、自分自身の下り坂を許容してでも、求められる役割を果たすことに熱を注ぐことができた。

新しい武器も見つけていた。チーム全体を動かし、試合中にピッチから戦況を正しく把握して、修正する方向に導く——ここ数年でようやくできるようになった感覚があった。若い頃の仕掛ける面白さとは違う、ベテランならではの魅力があった。

クラブが求めるなら、3年でも4年でも、40過ぎてでも——そう思った。

辞める時は、ジュビロ磐田との契約が終わる時。そう決めてから、代理人との契約も解除した。

しかし、その日は想定よりも早く訪れた。

18日前――始まったカウントダウン

2024年シーズン、最終節18日前のことだった。

「飯、行かないか」

チームの編成を担う藤田俊哉スポーツダイレクターから声を掛けられた。

「ああ、これはそうかもな」と予感した。

食事の席で、藤田から切り出された。

「大記、どう思ってる、来年以降のキャリア」

シーズン中、何度も自分に問い続けてきた。問われるまでもなかった。

「来年も選手としてやりたいですし、まだ自分は選手として貢献できると思っています」
言葉を選びながらも、はっきりと伝えた。

しかし——
「クラブとしては、今の話を聞いて申し訳ないんだけど……来年以降の契約はない、っていう判断なんだ」

一拍置いて、藤田は続けた。

「それでも現役を続けたい、という気持ちが強いなら、できることはサポートしたいとは思っているけど」

息を呑んだ。しかし、この場合の答えは、すでに自分の中で決まっていた。

「いや、ジュビロとの契約がないなら引退します」

その場で、即答した。
迷いはなかった。

"引退"と"満了"

家に戻り、まず妻に告げた。想像よりもショックを受けた表情だけが、印象的だった。
子どもの物心がつくまでやってくれると嬉しい――繰り返し聞いていた妻のささやかな願いをかなえられなかったのを少し申し訳なく思った。

翌日もいつも通り、練習がある。風呂に入り、身体をほぐし、ベッドに入った。


眠れなかった。


「こうなったら引退する」という条件は自分で決めていた。
ジュビロとの契約が切れたら辞める。その決断は、スッキリしていた。

しかし、満了――プロサッカー人生で初めて経験する“0円提示”にショックを受けていた。なんでなんだ、という苛立ち。

“引退”という、自ら選ぶ終わり。
“0円提示”という、クラブから告げられる終わり。

同じ終わりでありながら、その響きの違いが、胸の奥に鉛のように沈んだ。

16日前――ピッチの片隅で

直後の練習では、練習試合が組まれていた。
心の整理がつききらないまま、淡々と準備を進める。スパイクの紐を結びながら、どこか自分の輪郭がぼやけているような感覚があった。


試合後、横内昭展監督が声を掛けてきた。

「大記、来年のこと、聞いたよ」

そう前置きしてから、監督は続ける。

「まさか大記がいなくなる、ましてや引退になるとは想像もしてなかった。申し訳ない。」


その一言に、心が大きく揺れた。

多くの選手が、最後はチームで役割がなくなり、「居場所がなくなって」クラブを去っていく。必要とされなくなった末の満了。山田自身も、そんな光景を何度も見てきた。

だが、自分は違う。昇格も残留争いもともに戦ってきた指揮官は、今シーズンも自分を信頼し、主将を託してくれていた。全幅の信頼を寄せられた立場で、チームの真ん中に立たせてもらっている。

「“もう居場所ないな“って引退するんじゃなくて、これだけ信頼してもらって、キャプテンやらせてもらって…そういう立場で身を引けるってのは、すごく幸せなことです」

言葉に詰まった。ピッチの隅で、二人は黙ったまま涙を流した。

整った心

クラブは、若返りを図るタイミングにあった。新陳代謝を進めるという方向性は、間違ってはいない。その流れを覆せなかったのは、自分の力不足でもある。

同時に、「中心ではない立場」でチームに残ることが生む影響も、山田には分かっていた。

自分をリスペクトしてくれる選手たちは、実力に関係なく、山田を“中心”として扱おうとするだろう。そうなれば、これから本当にチームの中心を担っていくべき存在──たとえば上原力也のような選手──が、思い切って「中心」として振る舞えなくなってしまう。

自分が最後にやるべきことは、苛立つことではなく、もう一回チームのために、いい状態でヤマハスタジアムのピッチに立つこと。大好きな仲間とやる二試合を、大事にして、勝負して、楽しんで、勝ち抜くこと――

腹は決まった。
 

「最後、引退だから使ってあげようとか、そういうのは“なし”でお願いします」

お願いすると、監督は即座に返した。

「精神的に不安定になって、良くないプレーだったら外す。今まで通りフラットに、一人の選手として判断する」

これまで通り。その言葉に、選手としての最後の誇りを守ってもらった気がした。

(主将と指揮官――それぞれの立場で、チームを引っ張り続けた二人には深い信頼があった ©︎dehio_)

8日前――ヤマハ最終戦

そこからの数日は、慌ただしく過ぎていった。

クラブは引退リリースのタイミングを決め、コメントを準備し、セレモニーを手配――引退に向けての準備が急ピッチで進んでいた。

迎えたホーム最終戦、FC東京戦。ジュビロの残留にはこの試合を含め2連勝が必須だった。スタンドには、「10 YAMADA」のユニフォームを掲げるサポーターの姿が溢れていた。胸の奥が、じわりと熱くなる。

ベンチスタート。試合は後半早々、CKからFC東京の安斎颯馬に決められ、0−1のビハインドになっていた。62分、背番号10がコールされる。ヤマハスタジアムに、ひときわ大きな拍手が響いた。

思いのほか、緊張はなかった。「最後だから」と気負うこともなく、「これで終わりか」と手放すこともない。これまでの試合と同じように、ピッチの状況を見渡し、自分のいるべき場所を探し、ボールを受ける準備をすることができた。

大きくなった“後輩”

試合は1点ビハインドのまま進んでいた。

76分、ペナルティエリア手前で味方が倒され、FK。ボールに近づき、上原力也と言葉を交わす。

「どうします?直接狙いますか?」

「いや、(味方に)合わせよう。俺が左足でGKから遠ざかるボール蹴ろうか?」

「いえ、それなら僕が右足で合わせます」

口元が思わず緩む。

チームの先輩のホーム最終戦、ビハインドでの決定機──そんな場面でも“自分が蹴る”と主張できる強さ。元ユース上がりの小さな後輩の姿が、頼もしく見えた。

「分かった、任せるよ。なら、俺が中のメンバーに伝えにいく」ボールから離れ、エリアに向かった。

1分後、上原が蹴ったボールはきれいな弧を描き、M・ペイショットの頭を経由して、ゴールに吸い込まれた。

(いつしか、大きくなっていた後輩。そのひと振りが流れを変えた @JUBILO IWATA)

託したバトン

89分。残り時間はわずかとなっていた。相手DFの退場で数的優位となり、押し込むが、あと一歩――焦れる展開の中、決定機が舞い込んだ。CKのこぼれ球から藤川虎太朗のシュートが相手選手の手に当たり、主審がポイントを指す。PKだ。

高校での大会、大学での最終試合…PKには、大事な場面で外してきた記憶があった。それでも、心の底から湧き上がってきた感情は一つだった。――蹴りたい。

スポットにボールを置く。

サッカー人生で最も重いプレッシャーが、両肩にのしかかる。

大きくステップを踏み、逆足で振り抜く。

ネットが揺れ、一呼吸してスタジアムが揺れた。

(最後の一蹴りは、山田らしい、逆足のキックだった@JUBILO IWATA)

ホイッスルが鳴る。

横を見ると、上原力也が立っていた。目に涙を浮かべている。無言のまま、抱き合う。
これまで担ってきたものを、次の世代に手渡す儀式のようでもあった。

サッカー人生、こんな最後が待っていたのか――。

鳴り響く歓声の中、ヤマハスタジアムでの"最後の一日"が静かに幕を閉じた。

(受け渡しに、言葉はいらなかった@JUBILO IWATA)

最終日――残酷な結末、次の一歩

しかし、続けて迎えた最終節、ジュビロ磐田は鳥栖に0-3で敗れ、J2降格が決まる。
山田は後半からプレーするが、残留という目標は果たせずに、そのサッカー人生を閉じた。

引退後、何をするか。

引退までに見えた景色、ホーム最終戦で見た光景、プロでの時間でやり残したこと…。
山田の中で、次に目指す道が徐々に固まりつつあった。

後編へ続く)

(取材・文/沖サトシ)