「ジャンボ」の愛称で親しまれ、日本で最多の通算112勝(うちツアー94勝)を挙げたプロゴルファーの尾崎将司(おざき・まさ…

「ジャンボ」の愛称で親しまれ、日本で最多の通算112勝(うちツアー94勝)を挙げたプロゴルファーの尾崎将司(おざき・まさし)さんが23日、S状結腸がんのため死去した。24日に親族が発表した。78歳だった。尾崎さんは国内ゴルフツアーなどで、輝かしい成績を残したが、最近は指導者としても実績を挙げていた。

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実は、尾崎将司プロが不振を極めていたころ、筆者はゴルフ担当記者になった。堅苦しいので、ジャンボさんと呼びます。

83年、当時ツアー開幕戦の静岡オープン。筆者のゴルフ記者初戦でもあった。初日80をたたいて89位のジャンボさんは2日目、1番で右、左にOBの8、2番では隣のホールのフェアウエーに打ち込んでダブルボギー。緊張感がまるでなかった。

ハーフ46をたたいて棄権。その人が、明るい顔でクラブハウスでの食堂にどっかりと座り、記者を集めている。「お前、初めてだな。何でも聞いていいぞ」と、正面に座らされた駆け出し記者は「最初から棄権するつもりだったんですか?」と問うた。「なんだそれ」と体調不良で棄権したのに大声で怒っている。そんな始まりだった。

70年のデビューから勝ち続けていたが、81年賞金ランク23位、82年16位に終わった。後で知ることになるが、このころ、体型の変化、加齢などを乗り越えるためにスイング改造を行っていた。少し長めのティーを使って、他の選手の1・5倍ぐらい高いティーアップで飛ばしていく。哲学の1つは「まず飛ばせ、人より先に行けばそれだけ有利になる」。改造の目的は、はっきりしていた。

87年からは当時出始めたメタルヘッドのドライバーをいち早く取り入れた。スイング改造の最後のピースだったのだろう。86、87年に賞金ランク2位となって「復活」と言われたが、筆者は88年日本オープンで復活劇は完結したと思っている。昭和を彩った「AON」の青木功、中嶋常幸と最後まで優勝を争い、最終18番で「右手とヘッドが震えていた」という70センチのウイニングパットを2度仕切り直しした。ANに勝ってこそ「復活」といえた。

88年の賞金王を見て、筆者はゴルフ担当から離れた。そこからの「無双」ぶりは周知のとおりだ。12年、日刊スポーツを退社する際に会いに行った。「それがどうした」と言って、にやりと笑われた。

人それぞれに思い浮かぶジャンボさんの顔は違うだろう。筆者は88年日本オープンでの、しびれた右手を振る情けない表情、最後の目を見開いた仁王のような顔、そして優勝カップを差し上げた時の笑顔。皆さんはどんな顔を思い出しているだろうか。

ジャンボさん、安らかにお眠りください。

【赤坂厚】(83~88年、91年ゴルフ担当)