「ジャンボ」の愛称で親しまれ、日本で最多の通算112勝(うちツアー94勝)を挙げたプロゴルファーの尾崎将司(おざき・まさ…

「ジャンボ」の愛称で親しまれ、日本で最多の通算112勝(うちツアー94勝)を挙げたプロゴルファーの尾崎将司(おざき・まさし)さんが23日、S状結腸がんのため死去した。24日に親族が発表した。78歳だった。

尾崎さんはもともと野球人だ。徳島県立海南高(現海部高)では投手として活躍。64年の選抜大会決勝では尾道商のエース小川邦和(後に巨人、広島)に投げ勝って初出場初優勝を飾った。尾崎さんと同じ78歳になった小川さんが当時を振り返りながら悼んだ。

甲子園の決勝では戦う前から負けを覚悟していたという。

「マウンドのジャンボには後光が差していた。180センチ強のはずが、2メートル50センチくらい巨大に見えた。あれだけのオーラは長嶋(茂雄)さんとジャンボの2人だけ。吸い込まれそうだった」

5回まで両チーム無得点の投手戦。尾道商が6回に2点先制も、海南高は7回に1点を返す。迎えた8回に尾崎さんは同点となるセンター越えの三塁打を放った。9回に海南高はスクイズで決勝点を奪い、3-2で勝利した。試合後、両チームで健闘をたたえ合ったとき、尾崎さんの手を見て驚いた。

「自分の手がすぽっと入ってしまうくらい、ジャンボの手が大きかった。その大きな手でフォークを決め球にしていた。負けても仕方ないと改めて思った」

尾崎さんは高校卒業後の65年に西鉄ライオンズ(現西武)に投手として入団。1年目に17試合に登板し、0勝1敗、防御率4・85。2年で通算20試合、防御率4・83だったが、同期の池永正明の投球を見てかなわないと感じ外野手に転向。67年は外野手として29試合で打率4分8厘にとどまり、退団した。しかし、小川さんは打者としてのパワーが秀でていたという。

「同学年では、球のスピード、キレは(プロ5年で99勝)の池永(正明)の方が上だった。ただバッティングのセンスは良かった。選抜で打たれた三塁打もそうだが、2軍戦でセンターのバックスクリーンに本塁打を打ったこともあった。飛ばす力は圧倒的だった。それがゴルフの飛距離にもつながったはず。ゴルフに転向したときは必ず第一人者になると確信した」

小川さんは93年まで日刊スポーツの評論家を務めた。たまに尾崎さんとゴルフ場で会うと「読んでるぞ」と声をかけられたという。急な訃報には驚きを隠せなかったが、拍手で送り出したい気持ちだという。

「スポーツ文化を変えたのはミスター(長嶋さん)とジャンボの2人。よくやったと思います。本人もやることをやって、いつ死んでも悔いがないとの覚悟があったのではないでしょうか」