<悼む>「ジャンボ」の愛称で親しまれ、日本で最多の通算112勝(うちツアー94勝)を挙げたプロゴルファーの尾崎将司(おざ…

<悼む>

「ジャンボ」の愛称で親しまれ、日本で最多の通算112勝(うちツアー94勝)を挙げたプロゴルファーの尾崎将司(おざき・まさし)さんが23日、S状結腸がんのため死去した。24日に親族が発表した。78歳だった。尾崎さんは国内ゴルフツアーなどで、輝かしい成績を残したが、最近は指導者としても実績を挙げていた。

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尾崎将司プロ、ここではいつも通り「ジャンボさん」と呼ばせていただく。思い出は尽きない。

全盛期のジャンボさんは強いだけでなくプロ中のプロ、エンターテイナーでもあった。

例えば1994年住友VISA太平洋の最終日、グリーン右前に池が広がる6番パー5で、2オンを狙った球がしぶきを上げた。池ポチャかと思いきや、ボールは水面をはねてグリーン手前エッジへ。いわゆる“水切りショット”で難を逃れた。グリーンへ向かう途中、いきなりしゃがみ込むと、池に手を突っ込んだ。11月の冷たい池の水で手を洗い、頭を下げる“お清め”パフォーマンス。拍手と歓声に笑い声が交じり、ロープ際をびっしりと埋め尽くしたギャラリーのボルテージは最高潮に達した。

もちろん、そのホールはバーディーで、2週続けて初日から首位を守っての完全優勝。翌週ダンロップフェニックスでは本人にとって初の3週連続優勝で、年間7勝目を挙げた。同大会はそれまで海外からの招待選手が勝利をさらっていくことが多かった中、96年には3連覇を果たし、それがプロ通算100勝目という金字塔だ。「もってる」ぶりも半端なかった。

98年11月、翌年からマスターズの出場権に世界ランクが導入され、同50位まで出られることになった。これを聞いた「ジョー」こと末弟直道が言った。「じゃあ、ジャンボは一生出られるじゃん」。現在と世界ランクの算出法こそ違うが、51歳のジャンボさんは当時同ランク13位。その強さは永久不滅とみられていたのだ。

プロアマ戦ではゲストへの「おもてなし」が必須の昨今だが、当時のお客さんはジャンボさんのドライバーショットを間近で“体感”するだけで満足していたように見えた。同時に強さの要因は飛距離だけでなく、繊細な小技、パットにあった。まさに「ドライバー・イズ・ショー、パット・イズ・マネー」を両立。飛距離で「ジェット」こと次弟建夫に負けて「あいつは飛距離だけ。(野球の)バッター(出身)だからな。俺はピッチャーだから、ここの器用さが違うのよ」と、指先を細かく動かして笑ったこともあった。

そんな「ジャンボ節」は数え切れない。強すぎて、連日ジャンボさんの記事を書くことにネタに困ったこともしばしば。サービス精神とユーモアに富んだジャンボさんの言葉に何度助けられたことか…。

一方、国内とは対照的に米メジャー大会では常に期待を背負いつつも、勝利に縁がなかった。冒頭のエピソードがあった94年、4月マスターズで予選落ちし、帰国直後に出た日本ツアーでは初日首位発進。日刊スポーツの見出しは「尾崎弁慶 日本じゃ強い」といったものだった。これにはジャンボさんも不本意だったようで、翌日も首位ながら「日刊スポーツにあんなこと書かれたからな」と、いきなり共同会見拒否の姿勢を見せた。見出しは記事を書いた記者がつけるわけではないが、取材相手にとっては記事も見出しも現場の記者の“責任”といったところ。現場にいた私は実に困惑した。結局、周囲の説得もあって、会見は行われ、その大会は独走で優勝。優勝会見後、例の見出しについて「あれはジャンボさんへの期待から出た表現。ジャンボさんへの応援歌みたいなものなんです」と伝えると、「ありがとうな。おかげで発奮させてもらったよ」とニヤッと笑った。

数年後、米メジャー大会を前に抱負を尋ねられたジャンボさんが、こう漏らした。「海外だと日本と同じようにできないんだな。俺は家が好きだから…。内弁慶だから…」。繊細であるがゆえに、環境の変化に敏感だったのだ。

近年は若手の育成に尽力されていた。厳しさとおおらかさを併せ持った人間性が、いくつもの才能を開花させたのだろう。

華やかな実績と裏腹に、野球からの転向や、故障に苦しんだり、決して順風満帆なアスリート人生とはいえないかもしれない。ゆっくりおやすみください。感謝しかありません。【岡田美奈】(91~94、98~02、10~17年ゴルフ担当)