<悼む>「ジャンボ」の愛称で親しまれ、日本で最多の通算112勝(うちツアー94勝)を挙げたプロゴルファーの尾崎将司(おざ…

<悼む>

「ジャンボ」の愛称で親しまれ、日本で最多の通算112勝(うちツアー94勝)を挙げたプロゴルファーの尾崎将司(おざき・まさし)さんが23日、S状結腸がんのため死去した。24日に親族が発表した。78歳だった。尾崎さんは国内ゴルフツアーなどで、輝かしい成績を残したが、最近は指導者としても実績を挙げていた。

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35年ほど前に、ゴルフを始めた。そのころ「ジャンボ尾崎」は絶頂期だった。当時最先端のメタルヘッドドライバー、高いティーで金色のシャフトから放たれた球は誰よりも遠くまで飛んでいた。自身のブランド「j’s」のクラブ、スパイク、手袋、ボールまで全てがあこがれだった。「ジャンボさんのようになりたい」。僕の周りの少年ゴルファーの多くもそう口にして、競ってものまねをした記憶がよみがえる。

縁あって日刊スポーツに入社して、早々にゴルフ担当になった。最初に会ったジャンボさんは強烈だった。98年5月、奈良・グランデージGCで行われた日本プロ。新人の僕は記者会見の最後方に座って、様子をうかがっていた。険しい表情のジャンボさんが、会見場に現れて席につく。場内は静まり、緊張感が漂う。5秒、10秒…。しばらく沈黙が続いた。報道陣も、誰が口火を切るのか質問するタイミングをはかっていたと思う。すると、しびれを切らしたジャンボさんが「何もないなら帰るぞ!」と大声で言った。最後列の僕の背筋は、ビクッと震えるように伸びた。スーパースターの“オーラ”を記者として初めて感じた瞬間だった。

最初は近寄りがたい存在だったが、取材する機会が増えていくと、ジャンボさんから話を聞くことほど楽しいことはなかった。地方の試合では、支援者の高級車でゴルフ場へ通うのが通例だったジャンボさん。ある試合で、見たことのない外車に乗って帰ろうとした際のこと。駐車場で見送っていると、車内から窓を開けて手のひらをパーに広げて「この車は、この値段だよ」と言ってきた。僕が「500万円ですか?」と聞くと、ジャンボさんは目を見開きながら「バカか!」。続けて「5000万円だよ!」。調べてみると、超高級車で有名なマイバッハだった。翌日は、スコアが低迷して取材も盛り上がらない中での“お見送り”となったが、ジャンボさんはまた車内から窓を開けて「これが500万円の車だよ!」。ニヤリと笑って帰っていった姿も忘れられない。

“褒め上手”でもあった。シーズン開幕前の沖縄合宿を取材した際のこと。ジャンボさんに「フォロースルーを大きくしているように見えましたが、意図があるんですか?」と質問すると「ツーだな。今年のテーマはフォローで運ぶように打つことだ」と答えてくれた。レジェンドから「ツー=ゴルフ通」という“お墨付き”をもらったと、記者として大きな自信になった。もう1つある。ある試合で、1メートルほどのパットを外したことについて「あれはフック、スライス、どっちにも切れるラインに見えましたが…」と恐る恐る聞くと、ジャンボさんは「よく見てるな」と言ってくれた。スポーツ記者にとって取材対象者から「よく見てる」と言われることほどうれしいことはない。

近ごろは、弟子として多くの女子プロが活躍して指導者としても脚光を浴びていたジャンボさん。でも、よく考えれば、弟の健夫、直道、息子の智春、さらに飯合肇、東聡、金子柱憲ら多くの男子プロを育てて「ジャンボ軍団」を率いていたのだから、現在の女子の教え子の成長ぶりも必然だった気がする。ありとあらゆる気遣いで、気分を乗せて育てていたのだと思う。われわれ記者にも褒めて、ときにはジョークで場を和ませてくれたほどなのだから。

豪快そうで実は繊細で、思ったことを包み隠さず伝えてくれる素直な心があって、スコアが悪い日も貴重な「ひと言」を報道陣に残してくれる優しさもあったジャンボさん。本当にありがとうございました。

【98~01、03~12年ゴルフ担当=木村有三】