広島、阪神で通算119勝をマークし、現在はデイリースポーツ評論家を務める安仁屋宗八氏が、現役時代の記憶を振り返ります。…
広島、阪神で通算119勝をマークし、現在はデイリースポーツ評論家を務める安仁屋宗八氏が、現役時代の記憶を振り返ります。今では想像もつかない昭和ならではの破天荒なエピソードを語り尽くします。
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今回は広島の鬼軍曹と呼ばれた藤村隆男さんの話をしたい。お兄さんは阪神で監督もされた“物干し竿”で有名な富美男さん。兄弟ともに呉の出身でね。侍みたいな雰囲気の人で顔がよく似ていた。
阪神に入団してシーズン20勝をしたこともある隆男さんは現役最後の年を広島で送り、そのままコーチになった。僕が入団したころは1軍の投手コーチ。単身で来ていたので、三篠の三省寮に入って寮長も兼ねていたから、僕ら寮生活組は大変だった。年末ぎりぎりまで帰省できず、とことん鍛え上げられたからね。
とにかく走れ!投げろ!の人。特にランニング量は半端じゃなかった。寮から一本道の先に三滝という坂があって、その坂を利用した練習は地獄そのもの。
カーブしている200メートルほどの“坂道ダッシュ”を散々走ったあとに一対一の勝負が待ってる。負けると坂を下りて敗者同士でまた走る。僕は長距離は得意だったけど短距離が苦手。だからいつも最後まで走っていた。
ウサギ跳びで長い坂を上って行くなんて高校でも味わったことのないシゴキ。膝に悪いとか言われる時代ではなかったからね。馬跳びもやった。
大した用具がないから練習方法はすべて原始的。足上げ腹筋はアンダーソックスの中に砂を入れて、それを足首に乗せて持ち上げていた。その“砂袋”を今度は腕でつかんで鉄アレイ代わりにしたり。
それとシーズンを通して毎朝の体操前に、平和公園までの往復ランニングがあった。「ハイ、これで朝飯食ったら倍ほど食べられるぞ」と言われてね。
藤村さんはノックの名人でもあった。それこそ天下一品。特にショートアメリカン。短い距離から左右に振るノックで、捕れるかどうかの微妙な範囲で強い打球を打ってくる。「捕り30」とか「捕り50」とか言って、捕球した数だけ計算されるから延々と続く。
いつだったか、国鉄スワローズとの試合前練習で、金田(正一)さんが「藤村さん、もうやめてやってください。選手が死にますよ」と助け舟を出してくれたことがあってね。あの金田さんがそう言うぐらい厳しかった。
当時はあまりに憎たらしくて“早く死にゃあいいのに”と思ってましたよ。みんな。
でも鬼のような藤村さんもユニホームを脱ぐととても温和な人で、最高の“お父さん”という感じだった。「おんどりゃあ!」と叫んでいたのが信じられないほど。
いつも上品なブレザーを着て、シルクハットのようなカッコいい帽子をかぶっていた。コーヒーが好きで、葉巻を手にしている姿は粋だったね。オーダーメードで仕立てる背広がまた似合っていて、なじみの洋服店をみんなに紹介していた。
カープの猛練習は、あのころから始まったように思う。その中で僕は人の倍、鍛えられた気がするね。藤村さんのおかげで足腰が強くなり、今の自分があると。現役を退いた時にそう思ったね。
厳しかった半面、グラウンドを離れると食事やコーヒーに誘われ、村山実さんや金田さんら他球団の選手の練習なんかも教えてもらった。やっぱりみんなよく走って、よく投げていたと。
技術面ではあれこれ注文をつけず、肝心なところでアドバイスをしてくれた。僕もああいうコーチになりたいと思ったものですよ。感謝しかないね。
◇藤村 隆男(ふじむら・たかお)1920年10月5日、広島県呉市出身。右投げ右打ちの投手。兄は「ミスタータイガース」の藤村富美男。旧制呉港中(現呉港高)から40年に大阪タイガースに入団。1年目から活躍し、3年間で通算22勝。42年オフに徴兵のため退団し、46年にパシフィック太陽ロビンスで復帰。その後、社会人の植良組を経て49年に大阪に再入団。現役最後の1年は広島に在籍し、57年限りで引退。広島、近鉄、阪神で2軍監督やコーチなどを務めた。通算成績は414試合登板、135勝97敗、防御率2・65。93年に死去。
◇安仁屋 宗八(あにや・そうはち)1944年8月17日生まれ。沖縄県出身。沖縄高(現沖縄尚学)のエースで62年夏に甲子園出場。琉球煙草を経て64年広島に入団。75年阪神に移籍し、同年に最優秀防御率とカムバック賞を受賞。80年に広島へ復帰し、81年引退。実働18年、通算655試合登板、119勝124敗22セーブ。引退後は広島の投手コーチ、2軍監督などを歴任。2013年12月から広島カープOB会長。22年から名誉会長。