駒大進学で1年から4番…意識した“プロからの目” 元近鉄外野手でNPB通算215本塁打の栗橋茂氏(藤井寺市・スナック「し…

駒大進学で1年から4番…意識した“プロからの目”

 元近鉄外野手でNPB通算215本塁打の栗橋茂氏(藤井寺市・スナック「しゃむすん」経営)は、駒沢大では1970年の1年時から4番に抜擢された。帝京商工(現・帝京大高)時代は甲子園出場なし。知名度は決して高くなかったが、高校3年の時に駒大の練習に参加し、走攻守のすべてで非凡なものを見せつけ高評価を得ていた。「1年の時は打てなかったんだけどね」というが、ここぞの場面では勝負強さを発揮。4年生の先輩から泣きながら感謝されたこともあったという。

 当時の帝京商工・若色道夫監督の勧めで、栗橋氏は、準々決勝で日大一に敗れた高校3年夏の東京大会後に、駒大の練習に参加した。そこで俊足、強打、強肩の走攻守すべてで高いポテンシャルを見せつけ「ぜひ、来てほしい」と誘われた。当初は社会人野球・本田技研入りを希望、大学野球部の厳しい上下関係にも拒否反応を示していたが、結局、若色監督に押し切られる形で駒大進学を決断。新たな“闘い”が幕を開けたが、いきなり期待の大きさを感じたという。

「俺と入れ替わりで(駒大を)卒業して、ヤクルトに(1969年ドラフト7位で)入った(捕手の)大矢(明彦)さんの背番号8をもらったんですよ。駒大の“エース番号”は8番なんだよね。まぁ、巡り合わせもあるんだろうけど、上級生なんかが『8番を誰がもらうんだろうな』って話しているのを聞いたこともあった。監督室に呼ばれて、その8番を見た時に、ああ、俺が着るんだって思ったのも覚えている」

 くしくも同時に厳しい世界も目の当たりにしたそうだ。「俺がちょうど、その8番をもらった時、1つ上の2年生の先輩が“気をつけ”して、小林(昭仁)監督から『月謝を払いたまえ』って言われていた。特待生で取ったけど(結果を出せずに)使えないからって……。そんなの聞かないふりをしていたけど、うわぁ、しんどいなぁって思った。あの頃はそんなんだったよね。みんな裕福な家の人ばかりじゃないから、そうなったらやっぱりやめる人もいたし……」。

 栗橋氏も特待生での入学。「そりゃあ、俺も特待じゃなかったら、行くわけがないし、行けるわけもないからね」。それは栄光の背番号8を継承した時の忘れられない光景にもなったようだが、さらに気持ちが引き締まったのは「1年から4番」に抜擢されたことだった。「俺って東都(大学リーグ)とか何も知らなかったんだけど、話を聞いたら、戦国東都とかなんかいうし、そこで1年から4番を打つってことは当然、プロ野球も俺を見るんだろうなと思ったね」。

入れ替え戦でスタメン落ちも…9回2死から代打同点弾「初球をライトにね」

 しかし「1年の時は全然打てなかった」と言う。「その他の大学の1年生では中央(大学)に藤波(行雄外野手、元中日)と佐野(仙好内野手、元阪神)がいた。あいつらは1年生で結構打っていたんだよね。藤波は1番で、佐野はクリーンアップで、その仕事をしていた。俺は1年で(駒大の)4番を打ったけど、全然駄目。1年の秋は最下位になって、国士舘大との(1、2部)入れ替え戦ではスタメンを外されたんだよ」。

 秋に最下位になり、小林監督が入れ替え戦直前に辞任。駒大OBの太田誠氏が急きょ、代理監督を務めた(翌1971年春から正式に監督就任)。「太田さんが上級生主体の野球をしようということで俺は外されたんですよ」。それでもただでは転ばないのが栗橋氏の真骨頂ということだろう。代打に回って勝負強さを発揮した。「勝っていたのに3年生の人が満塁でトンネルして逆転されて、9回2アウトから俺が代打ホームランを打った。初球をライトにね」。

 まさに起死回生の一撃だった。「4年生で、その前の打席でホームランを打っていた人の代打だったんだけどね」と代理指揮官の采配もズバリ当たったわけだが、そんな状況で結果を出した栗橋氏の凄さは際立った。「それが同点ホームランで延長に入って、同じ1年生のヤツが2ベースを打って勝った。1年生コンビで勝ったんですよ」。卒業する4年生には感謝されたという。「ありがとう、ありがとうって言われた。みんな泣いていた。(下級生を)ボコボコにしていた先輩も泣いていたなぁ」。

 栗橋氏は淡々と振り返ったが、背番号8を受け継ぎ、1年生4番としての重圧とも闘った年でもあったはずだ。「結構、それは駒大では語り継がれているんだよね。(駒大で後輩の)石毛(宏典内野手、元西武、ダイエー)も(入れ替え戦で)なんかやったらしいけどね。(急きょ)ピッチャーをやってしのいだのかな。でも石毛は大学4年(1978年春)の時で、俺は1年の時。それはえらい違いじゃないかなぁ」。そう話して笑みも浮かべた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)