サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニ…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は、「やっちまった~!」場合に、どうすべきかについて。
■テレビ中継にとって「おいしい」ショット
見事なコンビネーションプレーで相手の守備ラインを突破し、ペナルティーエリア右からゴールに迫るアタッカー。その左からDFが激しく寄せ、シュートをブロックしようとする。しかしアタッカーは少しも慌てず、GKを見てシュートに入る。ボールはゴール左隅に飛ぶ。だがGKが信じ難い反応を示し、伸ばした右手の先でかろうじてボールに触れる。ボールはわずかに左ポストの外に切れていく…。
サッカーで最もスリリングでエキサイティングなシーンだ。守備側のファン、攻撃側のファンを問わず、スタンドの観客の誰もが大きな声を上げる。攻撃側のファンの声がため息に変わり、守備側のファンからはGKに対する賛美と感謝の声が上がる。
そのとき、決定的なシュートを防がれたアタッカーはどうしているだろうか。世界中のサッカーで今、共通しているのが、大声を上げ、天を仰ぐことだ。そして多くの選手が、両手で頭を抱え、あるいは顔を覆う。テレビ中継にとって「おいしい」カット。プレー全体を追っていたカメラから即座にアタッカーのアップ映像に切り替えられ、そのドラマチックな表情を何百万、何千万という人々に送り届ける…。
■日本と韓国が「ほぼ毎年」戦っていた時代
話は数十年前、とある「日韓定期戦」に飛ぶ。
最近はまったく話題になることもないが、1972年から1991年までの約15年間にわたって、日本代表と韓国代表はほぼ毎年親善試合を行っていた。当時、東アジアのサッカーのレベルは世界のトップからほど遠く、欧州や南米の代表チームとは対戦してもらうことさえできなかった。世界のレベルに追いつくには、日本と韓国が互いにしのぎを削りながら成長していくしかない――。日韓の両サッカー協会の考えがまとまって実現した大会だった。
1972年9月14日に東京の国立競技場で開催された「第1回定期戦」を皮切りに、ほぼ毎年、交互に親善試合を組んだ。第1回大会は大雨のなかの試合、日本は前半に先制したものの後半韓国の反撃にあって2点を失い、元気よく走り回る韓国を相手に完全な劣勢に立たされた。そしてスタジアムの電光掲示板の時計は45分を前にストップし、アディショナルタイムに入ったことを示す。1-2のまま日本の敗戦が濃厚となった。
■敗戦を覆した「日本最強のストライカー」
だがこのころの日本代表にはFW釜本邦茂がいた。前半19分にDF古田篤良のパスを受けて日本に先制点をもたらしていた釜本は、劣勢のなか、中盤に下がって守備を助ける動きもしていたが、その一方で、虎視眈々(たんたん)と「ひとつのチャンス」を狙っていた。アディショナルタイムに入ってすぐ、日本はカウンターアタックからセンターバックの小城得達が右サイドを突破、低いパスを中央に送ると、走り込んだ釜本が、前進する相手GKの足元を抜いてゴールに流し込み、2-2の引き分けに持ち込んだのだ。
そのような始まり方をした日韓定期戦だったが、翌年はソウルで0-2の完敗。第3回は東京で4-1の快勝だったが、この直前まで行われていたアジア競技大会(テヘラン)で日本がグループリーグの3試合だけで敗退し、休養十分だったのに対し、韓国は決勝リーグまで6試合を戦っての来日だっただけに、あまり参考にならない。ちなみに、前年のソウルでの定期戦には出場しなかった釜本は、この試合でも2点を記録している。