大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから〜大野元煕(後編) 大野元熙(げんき)は大学を辞め、目的もなく過ごす日々が続い…

大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから〜大野元煕(後編)

 大野元熙(げんき)は大学を辞め、目的もなく過ごす日々が続いていたある日、同じく時間だけはあった仲間とともに、イベントサークルを立ち上げた。大学ではよくある話だが、学生に限らず誰でも参加できる形とし、告知には、当時世に広がり始めていたツイッター(現・X)を活用した。従来の口コミやチラシに頼るやり方とは、明確に一線を画していた。

 こうした手法が奏功し、回を重ねるごとに集客は増加。大阪・ミナミのクラブを貸し切り、1000人近くが集まるイベントを開催するまでになった。関西でもトップクラスの規模を誇るサークルへと成長したが、活動を長く続けることはなかった。


株式会社ShinPakuの代表取締役CEOを務めている大野元熙氏

 写真は本人提供

【アルバイトで元手をつくり23歳で起業】

「儲けたいというより、やることのないメンバーが、ひとつの目標に向かって動く。その空気を楽しみたかっただけなんです」

 そう語る大野だが、サークル活動で得た成功体験が、彼のなかにひとつのスイッチを入れたのは確かだろう。

「次は商売や。起業や」

 そのためには資金が必要だった。身ひとつで東京へ向かい、寝る間を惜しんで働く日々。そうして1年余りで元手をつくり、2018年、23歳にして社長となった。

「アルバイトをしながら知り合った広告業界の人に、『いま伸びていて、ひとりでもできる業界ってどこですか?』と聞いたら、『退職代行がいいんじゃない?』って教えてもらって、決めました」

 いま勤めている会社を辞めたいが、会社に言い出せない人の意思を代行。退社にまつわる手続きを円滑に進める業務で、やり取りは電話で完了。電話口で相手に強く詰められたこともあったが、需要は高く、依頼はコンスタントに舞い込んだ。

 しかし、業界が注目されるようになるにつれ、「やり取りには弁護士の立ち会いが必要ではないか」といった議論が起こり始める。そうした流れを受け、大野は約1年半で業務転換を決断した。

「結果的に『弁護士は入らなくてもいい』という結論にはなったんですけど、もし弁護士が入るとなると、単純に僕らの取り分が減る。だったら、もう少し単価の大きな仕事をやろうと考えて、会社はそのまま残し、業務を広告関係主体のものに変えたんです」

 メーカーの商品を企業に代わって宣伝する、いわば広告代理店のような仕事を、SNS上でインフルエンサーを起用して展開。ホワイトニングやケア製品を得意分野とし、事業は順調な滑り出しを見せた。

 ところが、その矢先に新型コロナウイルスが拡大。メーカーの商品製造が止まり、ほどなくして広告出稿もストップした。新規事業を立ち上げるタイミングでもあったが、資金繰りが悪化し、計画は頓挫。一気に雲行きが怪しくなった。

【再びアルバイト生活の日々】

 それでも会社そのものを畳むことはせず、規模を大幅に縮小しながら事業を継続。一方で大野自身は捲土重来を期し、再び資金づくりに奔走した。

 アルバイトで運送会社のドライバーとなり、朝からがむしゃらに働いた。起床は朝の4時45分。15分で身支度を済ませ奈良の家を出ると、配送センターで荷物を積み込み、配送先をナビに入力。8時過ぎにセンターを出て出発し、時間指定の最終枠となる19時〜21時までの荷物を配る。そんな毎日だった。

 多い日には200個を超える荷物を受け取り主のもとへ届けた。その数は、センター内でも常にトップクラスだったという。

「ふつうのドライバーさんは、一軒一軒の家に荷物を届けに行く感覚だと思うんです。でも僕は、あらかじめ組んだルートの途中に家があって、そこに立ち寄る感覚でした。だからルート決めが極めて重要で、いかに効率よく回れるかを徹底的に考える。あとは、そのルートに沿って、順番に荷物を降ろしていけばいい」

 こうした何気ない話からも、商売の才覚がうかがえる。やがて資金のメドにしていた300万円をつくると、再び勝負の場へと戻った。前回と同様、SNSを活用した広告を主な業務とし、所属および業務提携のクリエイター、インフルエンサーを約200人抱え、企業案件に対応している。

「以前は、その都度フリーの方に依頼していたんですけど、前回からはパートナー契約を強めたのがひとつの変化です。単発の関係だと、こちらが『めちゃくちゃいい商品だ』と思っていても、インフルエンサーや(動画制作などを行なう)クリエイターの方に、思いが十分に伝わらないことがありました。だから、もっと関係性を深めて思いを共有し、よりいいものをお客さんに届けたい。今は、そういう形で取り組んでいます」

 ライバル業者がひしめき、差別化が求められるなかで、所属や業務提携しているクリエイター、インフルエンサーの価値を、さらに高めていきたいとも語る。

「もっとその人たちのバリュー、つまり価値を高めて、ファン化も強めていきたい。いわゆるアイドルと同じで、インフルエンサーにも"ファン的な存在"がたくさんついています。そうなれば、キムタク(木村拓哉)が着た服が売れるのと同じ原理ですよね。そうした点もしっかり把握したうえで、それぞれの得意・不得意を理解し、案件に合った人を起用していきたいと思っています」

【プロ野球の球団を持ちたい】

 話を聞きながら、目の前で語る人物が、かつて甲子園を目指し、泥にまみれていた大阪桐蔭の元球児であることを、思わず忘れそうになる。しかしその一方で、極上の負けん気と上昇志向、そしてハングリー精神は、確かに大阪桐蔭で培われたものだと思った。

 そんなニュアンスを伝えると、大野は軽く首をひねった。

「大阪桐蔭の野球部で3年間やりきったという自負はあります。でも、勉強して頭で上がってきた連中も、めちゃくちゃ仕事します。よく『社会に出たら野球部出身者はメンタルが強い』なんて言われますけど、僕が知っている社長たちのなかには、僕以上にハードにやっている人はたくさんいます。

 社会に出てしまえば、それまでの経歴は関係ない。大事なのは、仕事にどこまで熱狂できるか。社長のパッション、その熱量次第で、会社の大きさも変わると思っています。そのためにも自分と同じ熱量を持った人と一緒に働きたい。そういう人が来てくれたらうれしいです」

 口調は一気に熱を帯びた。

「年商1億から3億の規模なら、今のやり方でもいけると思うんです。でも、10億、100億と展開していくには、どうすればいいのか。インフルエンサーを軸に、もっともっとダイナミックに広げていきたいんです」

 話題が一気にスケールアップすると、話は人生の目標や夢といったテーマへと、さらに広がっていった。

「一番は、プロ野球の球団を持ちたいんです。零細企業をやっているヤツが何を言っているんだ、と思われるかもしれません。でも、年商1億の会社が、数年で10億、50億、100億と成長することは、実際にあります。僕の知っているところでも、数年前までは今の僕たちと同じくらいの規模だったのに、一気に10億、30億、100億へと伸びた例がある。

 高校野球では、2年半という限られた時間のなかでレギュラーにもなれず、ベンチにも入れなかった。でも今は、ここから20年、30年をかけての勝負です。死ぬまでに、球団を持ちたいんです」

 なぜ、球団なのか。その問いに、究極の本音がこぼれてきた。

「オーナーになって、大阪桐蔭レベルの選手をドラフトで指名し、自分の会社が持つチームで働いてもらう。それが究極の目標なんです。僕は同級生に負けて、最後の夏はバッティングピッチャーでしたけど、いつか自分の会社が球団を持ち、一流の選手を指名して、今度は自分が使う立場になりたい」

 メンバー漏れを告げられた、あの日。いつかこのメンバーを逆転する──そう心に誓った思いは、ここからどんな展開を見せるのか。

【人生のレギュラーになれ】

 たっぷりと語ってもらった最後、話題は再び"原点"へと戻った。

「高校の頃の話をしていたら、桐蔭のグラウンドにも行きたくなってきますね」

 後輩たちの戦いは常に気にかけているものの、グラウンドにはしばらく顔を出せていないという。西谷と最後に会ったのも、東京で退職代行の仕事をしていた頃。ちょうど、2018年の甲子園で春夏連覇を達成する根尾昂(中日)や藤原恭大(ロッテ)らのチームが、その前年秋に神宮大会に出場した時だ。

「またグラウンドには行きたいですけど、もう少し格好がつくようになってからですね。高校時代の僕は、とにかく精神的に幼かった。だから、少しは成長したところを見せられると思えた時に......」

 いや、31歳にして世間の荒波にもまれながら、たくましく生き、でっかい夢を追いかけるその姿を知れば、かつての指導者たちもきっと力強いエールを送ってくれることだろう。

 まさに大野は、西谷の「人生のレギュラーになれ」の教えを日々実践しながら、走り続けている。

(文中敬称略)