竹原慎二は日本人には到達不能と思われていたミドル級の世界王座を初めて奪取した photo by AFLO井上尚弥・中谷潤…

竹原慎二は日本人には到達不能と思われていたミドル級の世界王座を初めて奪取した photo by AFLO
井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち17:竹原慎二
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長身痩躯にもかかわらず、燃え立つような打撃戦に明け暮れた。日本、アジアの強敵をことごとく打ち破り、やがて、日本のボクサーが到底たどり着くことはないと信じられていたミドル級の世界王座に辿り着く。王座在位はわずか半年。初防衛に失敗するとともに左目の網膜剥離によって、24歳での引退を余儀なくされたのは残念だが、竹原慎二(沖)は間違いなく、日本ボクシング界の恩人のひとりである。(文中敬称略)
【絶対不利の予想のなかで奪った驚きのノックダウン】
あの時、東京・後楽園ホールをはちきれんばかりの音声で満たしたのは、はしゃいだ歓声ではなく、むしろ、驚嘆の共鳴だったのかもしれない。その瞬間、私を含む観客の大半は我を忘れて立ち上がった。そして、一斉に「アーッ」とただただ、大声でわめき立てた。
1995年12月19日、WBA世界ミドル級タイトルマッチの3ラウンド開始19秒。挑戦者・竹原慎二の左フックがボディに突き刺さり、不倒のチャンピオン、ホルヘ・フェルナンド・カストロ(アルゼンチン)は腹を抱えて逃げ出す。3歩歩いて、ガックリと崩れ落ちた。まさか、そんなシーンがあろうなんて、どれだけの人が考えていたのだろう。
なにより、ミドル級である。日本では重量級に識別される。選手層は極端に薄く、世界では逆にもっとも競技者人口が多いクラスのひとつとして数えられる。そんなクラスの"世界一"が、日本のボクサーの前にひれ伏している。
しかも、だ。「ロコモトーラ(機関車)」の異名を冠せられるくらいの突進力を誇るチャンピオンは、すこぶるつきのタフガイと評判だったのだ。アマチュアで約130戦、プロでも約9年間でなんと104戦(98勝68KO4敗2分)も戦っている。そして、その間にダウンの経験は一度もない。1年前には名うての技巧派ジョン・デビッド・ジャクソン(アメリカ)にいいように打ちまくられ、血だるまになりながら大逆転のKOに仕留め、権威あるアメリカの専門誌『ザ・リング』から年間最高試合にも選ばれたことがある。
そんなカストロを土壇場まで追い詰めた。レフェリーのカウントが進むなか、マウスピースを吐き出して、カウント8でやっと立つ。当時の慣例でセコンドがマウスピースを洗ってはめ直して試合が再開されるまで20秒もかかり、KOは逃したが、ボディに仕込まれたダメージはのちのちまで尾を引く。カストロが仕掛ける決死の乱戦に巻き込まれながらも、竹原は効果的にボディブローを決める。3−0の判定による勝利が発表されるや、今度はホンモノの歓喜に満たされた声によって、後楽園ホールは包まれた。
【強気のファイトスタイルで激戦の連続】
16歳で上京し、プロボクサーを目指した。17歳でデビュー。最初から目立つ存在だった。
その年のうちに東日本新人王、18歳になりたての翌年2月、全日本のルーキーチャンピオンになる。19歳で日本ミドル級王座を獲得。4度防衛したあと、空位の東洋太平洋同級タイトルの決定戦に勝ち、"オリエント・ナンバーワン"となった。そして、このタイトルも6度も防衛している。
その強さの源泉は、なんと言ってもハードパンチだった。186cmとミドル級としてもかなりの長身ながら、打ち出す拳はいずれも鋼鉄製かと思わせるほど鋭く、重い。ボディにめり込み、顔面をそり返らせる左フック。肩越しの高い打点から打ち落とす右のオーバーハンド。あるいはアゴをはね上げるアッパーカット。そのいずれにも一撃ノックアウトの破壊力があった。そして、そんな竹原の強みをより引き立て、逆に危なっかしさも生み出したのは、どこまでも強気なファイトスタイルである。
その典型が東洋太平洋の王座を争った李成天(韓国/イ・サンチュン)とのふたつの戦いだ。いずれも熾烈を極めた。その後にキックボクシングのリングにも立つ李は身長160cm足らず。『コリアン・タイソン』を自称した韓国チャンピオンだが、ぶん回すパンチは確かに強烈で、打たれ強さもケタ外れながら、いかにも荒っぽい。しかし、竹原はこの李に対して真っ向勝負の大激戦を演じる。
王座決定戦となった1993年5月の初戦。初回から李の左フックを浴びてバタつく。その後はラフな打ち合いがひたすら続く。ピンチとチャンスが一打一打で交錯し、最終ラウンドに入ってもどちらに勝負が転ぶかわからない。竹原は最後の力を振り絞る。右アッパーからチャンスを作り、連打に次ぐ連打。最後は鉈を振り下ろすような右で、李は大の字になった。残り時間22秒のKO劇だった。竹原はその後、この試合の前に左手を骨折していたと明かしている。
再戦は1995年9月。竹原は5ラウンドにダウンを奪うなど最大13ポイント差がつく大勝だったが、やはり危なっかしいシーンが満載だった。8ラウンドには左フックの相打ちで両者ともに倒れるダブルノックダウン。最終回も残り5秒でダメ押しのダウンを奪いながらも、その直前には反撃打を浴びて自身の足ももつれている。
この李との再戦がカストロ戦の3カ月前。強打は魅力的、敢闘精神も立派、しかし、世界となるとはるか雲の上ではないか。そんな前評判のもとに向かったリングで、竹原は特大の勝利を手にしたのだった。
【"ワル"キャラで現役時代以上の知名度を得る】
激闘の果てに手に入れたタイトルは、わずか半年後に失った。スピードと技に長けた挑戦者ウィリアム・ジョピー(アメリカ)に初回からダウンを喫し、その後も力みが抜けきらないまま、一方的に打ちまくられる。そして、9ラウンド、ついにレフェリーにTKO負けを言い渡される。敗因は初防衛戦のプレッシャーとともに、左目に網膜剥離を負ったことにもあった。
引退を決意した竹原は、第2の人生に立ち向かうが、なかなかエンジンがかからなかったという。
ようやくイタリア料理店を開業したころの竹原をインタビューしたことがある。「無名の世界チャンピオンって厳しいものですよ」というひと言が印象的だった。後楽園ホールの人気者で、殊勲と言ってもまだまだ軽すぎる歴史的勝利も手にした。巨大な横浜アリーナで行なったジョピーとの世界戦は1万を超える観客も集めた。それでも、知名度は限定的で、熱心なファンの間でのものにすぎなかったのか。世界チャンピオンになれば世間にその名が知れ渡る時代は、もう遠く過ぎ去っていた。
竹原は、しかし、その"ワル"キャラをバックボーンにやがて人気者になっていく。きっかけは不良を集め、ボクサーに育てていくリアリティ・バラエティ『ガチンコ! ファイトクラブ』のコーチ役だった。少年時代、『広島の粗大ゴミ』と呼ばれたという竹原の強面一辺倒の指導が視聴者の反響を集めた。さらに少年誌のウェブサイトに連載された人生相談でも、当たりの柔らかさを一切排除した"ぶちかまし"回答が人気となった。
ようやく光が当たった"世界チャンピオン"のキャリア。苦労も多かったが、世界チャンピオンになっていなければ、決して歩めなかった人生でもある。
●Profile
たけはら・しんじ/1972年1月25日生まれ、広島県安芸郡府中町出身。中学校を卒業し、職を転々するが、プロボクサーを志して上京。沖ジムに所属して1989年に17歳でプロデビューする。186cmの長身から繰り出す強烈なワンパンチのみならず、コンビネーションブローにも冴えを見せ、不敗の快進撃を続ける。攻撃偏重のあまり、時に乱戦模様になることもあったが、持ち前の向こうっ気の強さで勝ち抜いた。日本、東洋太平洋チャンピオンを経て、1995年12月、ホルヘ・カストロ(アルゼンチン)に劇的勝利を収め、日本人として初めてのミドル級世界チャンピオンとなった。初防衛に失敗したあと、24歳の若さで引退した。引退後はバラエティ番組などで人気を博す。がんとの闘病を克服したことでも知られる。25戦24勝(18KO)1敗。竹原慎二&畑山隆則ジム会長。