連載第80回 サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」 現場観戦7500試合を達成したベテランサッ…

連載第80回 
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 ジェフユナイテッド千葉が17年ぶりにJ1復帰。今回は戦前からスタートしている前身チームの古河電工サッカー部の歴史と、そのチームの中心、そして日本サッカー界の中心として活躍した長沼健氏を紹介します。

【熱いフクアリでJ1昇格】

 J1昇格プレーオフ決勝で徳島ヴォルティスを下したジェフユナイテッド千葉が、17年ぶりのJ1復帰を決めた。


実に17年ぶりのJ1復帰を決めた、ジェフユナイテッド千葉

 photo by Kishiku Torao

 試合開始直後は激しい攻め合いとなったが、両チームの守備陣が踏ん張ってスコアレスのまま時間が経過。次第にいわゆる「決勝戦らしい」試合となっていった。そして、後半に入ると「勝利」が昇格への絶対条件である徳島が攻勢を強めていく。

 しかし、ホームのサポーターの大声援が千葉の守備陣を背後から支えた。キックオフ前のコイントスに勝った徳島がサイドの変更を選択したので、後半千葉サポーターが陣取る北側ゴールに向かって攻めることになったのだ。

 耐え続けた千葉は69分にカウンターを発動。石川大地が右に振ったボールを受けた髙橋壱晟がフリーで持ち込んで正確なクロス。カルリーニョス・ジュニオが頭で合わせて千葉が貴重な先制ゴールを決めた。そして大歓声のなか、反撃を試みる徳島を完封した。

 1週間前の準決勝、RB大宮アルディージャ戦で0対3の劣勢から16分間で4ゴールを奪って逆転した「フクアリの奇跡」とは打って変わって、千葉が堅い守備力で昇格の切符をつかんだ。

 徳島との決勝戦で、小林慶行監督は1枚目の交代カードとして「フクアリの奇跡」の立役者である17歳の姫野誠を起用した。まだスコアが動かない重苦しい展開のなかの交代だ(スコアレスのまま終われば千葉の昇格が決まる)。経験あるベテランを起用してゲームを落ち着かせるのが順当だろう。だが、あえて姫野を起用することでスタジアムの雰囲気を変えたかったそうだ。

 小林監督は大宮戦のあと「ホームで戦えることが最大のアドバンテージ」と語っていたが、ホームの大声援が力になっていたのは事実だ。

 フクダ電子アリーナがこれほど熱い声援に包まれるようになったのは2023年に小林監督が就任してからのことだった。

 17年前にJ2に陥落した名門ジェフ千葉は、関塚隆氏や尹晶煥(ユン・ジョンファン)氏といった実績のある指揮官を起用したこともあったが、昇格への道は遠かった。昇格争いにも、残留争いにも加わらず、まるで「J2中位」に安住の地を見出だしてしまったかのようで、フクアリには熱さが欠けていたように見えた。

 そんななか、小林監督はアップテンポな攻撃サッカーでサポーターの心をつかんで、フクアリの雰囲気を一変させた。

「千葉は変わった」という評判を聞きつけて最初に試合を見に行った時には、「これが、あのフクアリなのか」とその変貌ぶりに驚いたものだった。

 選手が次々と攻め上がり、早いテンポでボールが回る。すばらしい攻撃力だった。

 反面、脆さも同居していた。2023年は6位で昇格プレーオフ準決勝敗退。2024年は小森飛絢(現浦和レッズ)というストライカーを擁して得点力がさらに上がったものの、7位でプレーオフ進出を逃した。

 そこで3年目の今季、小林監督は「バランスを考えた」という。昨年までも「バランス」は考えていたが、まずストロングポイントを確立するために「(自分が)尖っているべきだ」と思ったというのだ。

 その思いが結実し、今の千葉はバランスを考えながら、しかし、3年間で培ってきた攻撃力を失わない戦いができていた。そして、熱い雰囲気も変わらなかった。

【前身の古河電工はJSLに初年度から参加】

 僕にとっても、千葉の昇格は「ホッとする」出来事だった。というのは、僕は古くから千葉の前身の古河電工サッカー部のファンだったからだ(古河電工は現在もクラブ運営会社に資本金の50%を出資している)。

 古河は1965年に始まった日本サッカーリーグ(JSL)に初年度から参加し、以後27年間にわたって一度も2部に降格したことのない唯一のクラブだった(1972年には8チーム中7位と低迷したが、翌年JSLが10チームに拡大されたので入れ替え戦を逃れた)。

 僕は1964年の東京五輪でサッカーを初観戦。翌年、始まったばかりのJSL観戦にも行くようになった。そして、最初にファンになったのが古河だった。

 当時、日本代表の応援活動をしていた「日本サッカー狂会」というファンの親睦団体があったので(現在も存続している)僕も入会した。そこで幹事長をしておられた池原謙一郎さん(造園家、筑波大学教授)も古河ファンだったので、ふたりで応援旗を手作りして声援を送ったものだった。

 現在の千葉は「黄、緑、赤」という、アフリカっぽいチームカラーだが、JSL時代の古河はライトブルーが基調だったので、応援旗もブルーとイエローをアレンジしたものだった。

 ただ、池原さんと僕の応援の甲斐もなく、古河はJSLでなかなか優勝できなかった。JSL優勝はわずかに2回。奥寺康彦や永井良和がいた1976年と岡田武史や宮内聡がいた1985年だけだった。天皇杯でもJSL時代に古河は1回しか優勝していない。

 JSLでは東洋工業(現サンフレッチェ広島)が初年度から4連覇。その後、東洋に対抗したのは杉山隆一や森孝慈、横山謙三(GK)を入団させた三菱重工(現浦和レッズ)や、釜本邦茂やブラジル出身のネルソン吉村がいたヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)だった。

 古河はすでに「古豪」と呼ばれていた。古河の黄金時代はJSL以前の1950年代後半から60年代前半にかけてだったからだ。

【日本サッカー界の中心となった長沼健】

 創設は第2次世界大戦直後の1946年となっている。

 古河の栃木県日光市にあった事業所では古くからアイスホッケーが盛んだったが、部員は夏場にはサッカーをしていた。そして、東京本社でもサッカーが行なわれるようになり、戦前から関東実業団リーグに加盟していたが、戦争でいったん休止。戦後に活動を再開した1946年が公式の「創設年」とされた。

 1920年代から50年代まで、日本サッカーの中心は大学チームだった。

 関東、関西の大学リーグが日本のトップリーグであり、両リーグの優勝校同士が対戦する「東西学生蹴球対抗王座決定戦」こそ実力日本一決定戦だと思われていた。

 実業団もあったが大学には対抗できず、実業団の選手たちは全日本選手権にはOBを含む大学チームの一員として参戦した(早稲田WMW、東大LB、慶應BRBといった名称のチームがそれだ)。

 しかし、古河は1955年頃から本格的にチーム強化を始めた。そして、この年、長沼健が入部。古河サッカー部の、そして日本サッカー界の中心として活躍した。

 長沼は広島高等師範附属中学(現、広島大学附属高校)のエースとして1947年度の全国中等学校選手権(現在の全国高校サッカー選手権)に出場して圧倒的な強さで優勝。その後、関西学院大学で関西学生リーグ3連覇。卒業後も東京の中央大学に編入してサッカーを続けた。

 そして、古河でも選手、監督としてチーム強化を担い、1960年に古河は全日本選手権決勝で慶應BRBを下して実業団として初めて天皇杯を掲げた。1950年代後半からJSL発足前に古河は天皇杯で3度、全日本実業団で3度、都市対抗選手権で4度優勝した。つまり、彼らは大学中心から実業団中心に変わる時代の先頭を走ったのだ。


1968年メキシコ五輪銅メダル獲得後の長沼健日本代表監督(当時)

 photo by AFLO

 長沼は旧制中学、大学、実業団のすべてで主役となり、1962年には33歳の若さで東京五輪を目指す日本代表監督に抜擢され、1968年のメキシコ五輪では銅メダルを獲得。その後は日本サッカー協会専務理事として協会改革に取り組み、同会長として2002年W杯招致を実現。つねに日本サッカーの中心にいて「親分肌」で誰からも尊敬される存在だった。

【古河OBは日本サッカー界を引っ張る存在】

 ところで、長沼は代表監督就任後も古河で選手登録をしていた。

 実際、僕も長沼"選手"が出場した試合を見たことがある。1966年11月の古河対東洋戦。会場は駒沢陸上競技場で、東洋が勝てばJSL連覇決定という試合だった。その試合に、長沼が出場したのだ。


1966年に長沼健が出場した古河対東洋戦のJSL入場券。当時は、第13週(今で言う

「第13節」)共通入場券という形だった(画像は後藤氏提供)

 東洋では数多くの代表選手がプレーしていたが、ピッチ上で"監督"に睨まれたせいか試合はスコアレスドロー。東洋の優勝決定は持ち越しとなった。現在では信じられないような光景だろう。

 長沼以外にも古河OBは日本サッカー界を引っ張る存在で、川淵三郎、小倉純二、田嶋幸三の3人が協会会長に就任している(小倉は選手ではなかった)。長沼が就任する前は、協会会長は大学OBや財界人などが務めていたから、協会運営という意味でも古河は「実業団時代」の中心だったのである。

 いずれにしても、J1リーグでも小林監督にはぜひ「尖っていて」ほしいものである。

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