プロ野球ブルペン史ヤクルト黄金期を支えた髙津臣吾が語る守護神誕生秘話(後編) 1994年、ヤクルトの髙津臣吾は自身初の最…
プロ野球ブルペン史
ヤクルト黄金期を支えた髙津臣吾が語る守護神誕生秘話(後編)
1994年、ヤクルトの髙津臣吾は自身初の最優秀救援投手賞を受賞した。だが抑えとしての自覚はたしかなものではなく、常にライバルを意識して競争のなかにいたという。
とはいえ、マウンド上の髙津は当初から変に緊張することもなく、落ち着きはらっていると感じられた。一挙一動や姿勢が、冷静そのものだったのはなぜか──。日米通算313セーブを挙げた髙津に聞く。
2004年から2年間、メジャーでプレーした髙津臣吾氏
photo by Sankei Visual
【バッテリーで組み立てた9回の攻防】
「なぜ緊張しなかったかと言うと、抑えはめちゃくちゃ考えることがあるからです。まず誰が代打で残っているかとか、前回の対戦はこうだったから今回はこうじゃないかとか、いろいろ考えながら準備してマウンドに上がると、緊張している暇がなくて(笑)。だから自分で気持ちを盛り上げるとか、興奮して出て行ったとかもない。それで冷静に見えたのかもしれないです。
データの準備っていうのは、とても大事だと思います。たとえば、ランナーひとり出たら誰が代走で出てくるか、バントしてくるのかどうなのかとか、相手の監督の作戦から起用法まで考えなきゃいけないので。本当に難しかったですね、9回を投げるというのは」
変則のサイドスローで技巧派だった髙津の場合、勢いのある真っすぐと落ちる球で狙って三振を取れるわけではない。低めに投げて前に打たせて、ゴロに打ち取る投球を目標にしても、なかなか簡単にはいかない。ゆえに、データを踏まえて考えることが多かった。それは正捕手の古田敦也も一緒になって考えていたのだろうか。
「そのとおりです。先頭がこうだから、代打はこうだとか、ランナーひとり出たら注意しようねとか、簡単なことをおさらいするみたいに一瞬で打ち合わせて。僕も古田さんが言うことを想像してマウンドに上がってるんで、再確認してピッチング練習を始めるという感じでしたね」
バッテリーで準備し、冷静で感情の起伏も激しくなかったマウンド上。そのせいか、髙津が派手に抑えを失敗した場面はイメージしにくい。
「いやいや、失敗の数なら負けないと思います(笑)。僕らの年代だと佐々木さん(主浩/元横浜ほか)とか宣銅烈(元中日)が抑えでいましたけど、その人たちに比べたら、明らかに成功率が低いはずですよ。佐々木さんなんか、もう本当のクローザーでしたからね。
で、失敗した時はぜんぶ台無しにして、みんなの幸せを奪ってしまうような気がして、しんどかったです。辛かったです。でも、一番辛いのはそれを言えないこと。抑えはそんな態度を人には見せられないので......ほんと大変ですよ。自分がすべてを背負っているっていうことが、すごく頭にあったので」
【クリーブランドで掴んだ突破口】
95年も開幕から抑えを務めた髙津は28セーブを挙げ、リーグ優勝、日本一に貢献。この頃から、チームを背負って最後の3つのアウトを取りにいくという意識が高まっていた。と同時に、そこで失敗し、みんなが喜べるところをがっくりさせてしまう責任の重さを痛感するようになる。そんなしんどくて辛い心境から、いかにして切り替えていたのか。
「なかなか簡単に切り替えとか、じゃあ次に向かって、っていう感じにはならないものなんです。だから一番は、失敗した次の日に投げて成功すること。次の日といっても、その24時間はすごくしんどいですけどね。それが3、4日、間隔が空くのは好きじゃなかったです。体にはいいかもしれないですけど、精神的によくなかったわけです、僕の場合は」
翌96年も21セーブを挙げた髙津だったが、6敗を喫した。失敗が目立つようになると、97年は中継ぎから始動し、5月には先発で3試合に登板。一時は伊藤智仁が抑えに回り、同年は7セーブに終わるもチームはリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは髙津が胴上げ投手となった。だが、翌98年も不調でわずか3セーブ。右ヒジと腰の調子がよくない影響もあった。
「98年はしんどい1年間を過ごしました。何をやってもうまくいかないし、今後どうしたらいいのかってずっと考えていて......。それでも、オフにクリーブランドでトレーニングする話をいただいて。まず徹底的に体を検査して、真冬の2カ月半ぐらいリハビリキャンプをしたのがよかったですね。そのあとの野球人生に非常に大きな影響があった時期だと思います」
当時、ヤクルトはMLBのクリーブランド・インディアンズ(現・ガーディアンズ)と業務提携していた。内容は選手の育成、リハビリなどにも及び、その恩恵にあずかった髙津は、効果的に体を鍛えることで手術を回避。帰国後、投手コーチの小谷正勝から「先発やらないか?」と打診されたが、「ここまでリリーフで来たんで、引き続きリリーフやりたいです」と答えた。
「小谷さんは『じゃあ、わかった』と。ただ、ふつう聞かないですよ、選手に対して。聞く前に『今年こうするから』と伝えることはあっても。だから、その前の段階で、監督ではなくコーチが言ってきたということは、僕に選択権があるんだなと思って自分の希望を言ったんです。そこはありがたかったですね。でも、抑えではなくなっていたので、また競争して獲りにいきました」
【緩い球で渡り歩いた日米のマウンド】
野村克也から若松勉に監督が代わった99年。髙津は開幕から抑えを務めると30セーブを挙げて復活。01年は37セーブでリーグ優勝、日本一に貢献し、03年は34セーブ。これら3シーズンすべてで最優秀救援投手賞を受賞すると、オフにFA権を行使して海を渡り、04年、ホワイトソックスに入団する。
「何度も日本一になって、クローザーとしてタイトルも獲ったし、次のステップに行ってもいいのかなと思いました。とにかく、1年目はリリーフの枠に残りたいっていう一心でしたね。そのなかで向こうではシンカーがチェンジアップと呼ばれましたけど、すごく有効なボールになった。カーブも含めて遅い球が、向こうのバッターにはタイミングを取りづらかったようで」
野村とともにつくり上げたシンカーが生きて、途中から抑えも務めた髙津は59登板で6勝19セーブを記録。しかし2年目は序盤から打ち込まれて結果を出せず、8月にはメッツに移籍したがオフに退団。06年、古田が選手兼任監督となったヤクルトにテストを経て復帰すると、8月以降、チーム事情で再び抑えを務めることになった。
07年は開幕から抑えで始動したが、負傷離脱もあって不調。39歳にして同年限りで退団し、日米通算313セーブという記録を残した。これは佐々木の日米通算381セーブに次ぐ数字だが、日本プロ野球では岩瀬仁紀(元中日)に次いで歴代2位の286セーブ。横浜(現・DeNA)監督時代、佐々木を擁して日本一になった権藤博は、高津についてこう評している。
「高津と佐々木を比べると、圧倒的に佐々木のほうが上ですけど、それでも高津はあの緩い球で、落ちる球で、よくしのぎましたね。その苦しさは今にもつながって、あのしぶとい高津監督というのができあがっていると思う」
退団後の髙津は韓国、台湾、BCリーグで現役を続行。12年限りで引退すると、14年にヤクルトに復帰して投手コーチ、二軍監督を経て20年に監督に就任。1年目は最下位に終わりながら、21年にはリーグ優勝、日本一に導き、22年はリーグ連覇を成し遂げた。「しぶとさ」は高津の野球人生そのものにも感じられるが、権藤の言葉をそのままぶつけさせてもらった。
「しぶとさというか、粘りというか。僕自身、すごく雑な性格で、ロッカーとかの整理整頓ができなかったんですけど、『ピッチングはめちゃくちゃ丁寧だ』って古田さんに言われてたんです。権藤さんの話じゃないですけど、粘り強く、しつこく、ずーっと同じところ、バッターが振るまで投げるんですよ。ボールになっても同じところ、いつか手を出すと思ってね。
ずっと逆境のなかでやってきて、少々のことではへこたれない、と自分では思っているので。監督をやらせてもらえたこともすごく幸せだったと思うし、いろんなしんどいことはあっても、この幸せに比べたら大したことではなかったですね」
(文中敬称略)
髙津臣吾(たかつ・しんご)/1968年11月25日生まれ。広島県出身。広島工業高から亜細亜大学に進み、90年ドラフト3位でヤクルトに入団。魔球シンカーを武器に守護神として活躍し、4度の最優秀救援投手に輝く。2003年には、通算260セーブ、289セーブポイントの日本記録(当時)を達成。04年、MLBシカゴ・ホワイトソックスへ移籍し、クローザーとして活躍した。その後、韓国、台湾に渡り、4カ国でプレーした初の選手となる。11年、独立リーグ・新潟アルビレックスBCと契約。12年には選手兼任監督としてチームを日本一に導いた。同年、現役を引退。14年に古巣であるヤクルトの一軍投手コーチに就任。16年から二軍監督、20年から25年まで一軍監督を務めた