MLB中継解説者・武田一浩氏、中日時代に右膝痛を発症 激痛に耐えながら奮投を続けた。NHKのMLB中継解説者として活躍中…

MLB中継解説者・武田一浩氏、中日時代に右膝痛を発症

 激痛に耐えながら奮投を続けた。NHKのMLB中継解説者として活躍中の野球評論家・武田一浩氏は、日本ハム時代の1991年に最優秀救援投手のタイトルを獲得。ダイエー移籍後の1998年には最多勝を獲得した。中日にFA移籍した1999年には自身初のリーグ優勝を経験。一方、同年の後半戦に右膝を痛め、怪我との苦しい闘いが始まった。

 中日1年目の1999年4月6日の横浜戦に移籍後初先発して完封。続く15日のヤクルト戦でも完封し「オールスターまで凄く良かった」と振り返る。5度目の出場となった球宴では7月25日の第2戦に3番手で登板して3回を投げていた。

 チームも自身も順調だったが、後半戦2度目の先発となった8月8日の横浜戦で右膝を負傷。「軟骨を損傷して、半月板も痛めていました。メチャクチャ痛かったんですけど、優勝を争っていたので病院でたまった水を抜いて、そのまま投げていました。ただコントロールが悪くなってしまいましたね」。それでも最後まで先発ローテーションを守り抜き、中日の11年ぶりとなるリーグ制覇に貢献した。

 プロ入り後、初めて経験した大きな故障。無理がたたって右膝痛は悪化の一途をたどった。翌2000年は「(春季)キャンプの初日にランニングができなかったんです。歩いていました」という。キャンプ休日は沖縄から福岡の病院へ行き「関節の中を滑らかにする注射を打っていました」と回顧。シーズン中は座薬を投与して強行登板を続け「トレーナー室の座薬がなくなるから『座薬泥棒』と言われてました」と冗談交じりに当時を振り返った。

 そういう状況だけに思うような結果は残せない。2000年は3勝止まり。優勝争いからも脱落しており、9月に右膝軟骨と半月板の除去手術を受けた。「もう状態はだいぶヤバかったです」。3年契約3年目の2001年は「その年でやめるつもりでした」と背水の覚悟で臨んでいた。

星野監督からの“引導”が一転「ジャイアンツに行け」

 5月13日の巨人戦で挙げた3勝目を最後に白星はなく、7月に2軍落ち。登板機会がないまま迎えた9月のある日、明大の先輩である星野仙一監督から自宅に呼ばれたという。「『俺は(監督を)やめるから、お前もやめろ』と言われました。膝も痛かったし『はい、やめます』と答えたんです」。中日に呼んでくれた星野監督から引導を渡されたのだから引退する覚悟は決まった。

 中日にFA移籍した際の契約で、条件に入っていた終身雇用は最終的に放棄。「大リーグのコーチをやりたい」と星野監督と話をしているうちに雲行きが変わってきた。「突然『(原)辰徳がジャイアンツの監督になるから、やっぱりお前はジャイアンツに行け』と言われて、その場で仙さんが原さんに電話したんですよ。昭和のやり方です」。今では考えられないエピソードである。

 ただ、この時点では正式には何も決まっていない。9月下旬、中日から戦力外通告を受けた武田氏は熟考していた。そんな時、入ってきたのが中日監督を退任した星野氏の阪神監督就任の情報。「じゃあ俺も阪神がいいです」と再びの共闘を訴えたという。

「仙さんは『ダメだ』と言うんですよ。『何でですか?』と聞いたら『阪神はこれから若い選手が頑張っていかないといけないから、お前はいいよ』と。『勝手だな』と思いながら、ジャイアンツに行ったんです」

 2002年はプロ4球団目となる巨人でプレー。5月7日の中日戦で6回2失点に抑えて古巣相手に移籍後初勝利を挙げ、史上3人目の全12球団勝利を達成した。さらに同22日の阪神戦は6回1失点で2勝目。星野監督への強烈な恩返しとなり、健在ぶりを示した。その後は右膝痛が悪化して同年限りで引退。それでも現役ラストイヤーまで大きなインパクトを残し続け、惜しまれながらユニホームを脱いだ。(尾辻剛 / Go Otsuji)