現役時代は名遊撃手としてベストナイン1回、ダイヤモンドグラブ賞1回を受賞。引退後は中日、日本ハム、ロッテ、オリックス、…
現役時代は名遊撃手としてベストナイン1回、ダイヤモンドグラブ賞1回を受賞。引退後は中日、日本ハム、ロッテ、オリックス、阪神、そして第2回、第3回WBC日本代表のコーチを務めるなど、長年プロ野球界を支えてきた髙代延博氏。
2023年からは大阪経済大学硬式野球部の監督、24年からは同大学の特命教授を務めていたが、9日午後8時42分、食道胃接合部がんのため逝去した。71歳。
その華々しい肩書きとは裏腹に、地道な努力で自らを鍛え続けた髙代氏。いま話題の書籍『怪物 江川卓伝』(集英社)には、その実像を物語る貴重な証言が残されている。本稿では、そのなかから江川卓とのたった一度の真剣勝負に挑んだ髙代氏の、誠実で愚直な歩みが凝縮されたエピソードを紹介したい。
2023年から大阪経済大学硬式野球部の監督を務めていた高代延博氏
photo by Sankei Visual
【江川卓の球を見て野手転向を決断】
髙代は智辯学園(奈良)から法政大、東芝、さらにドラフト1位で日本ハムに入団するなど、その経歴からエリート街道まっしぐらに見られがちだが、法政には一般入試で入り、最初は寮にも入れなかった。
「『エリート中のエリート』なんてたまに言われますけど、『よく言うよ』って感じですよ。智辯学園の時なんか、毎日『辞めたい』と思いながら学校に通ってましたからね。法政だって一般入試で入ったわけで、特待生とかスポーツ推薦の連中は、雲の上の存在でした」
法政では入学してから2年間は寮にも入れず、プロを目指すどころか、1、2年はバッティングピッチャーを務めた。練習が終わるとスパイク磨きやトイレ掃除、洗濯など雑用を山ほどこなし、先輩からの説教を食らってから東横線の元住吉まで帰り、そのうえで500回の素振りを毎日の日課として続けた。
2年に上がると、「花の49年組」と呼ばれる江川を筆頭としたスター選手が次々と入学してきた。
「江川が1年生の秋のリーグ戦で投げて優勝した頃、僕はまだピッチャーだったんです。藤田信男先生から『おまえ、投げろ』と言われてね。球もそこそこでコントロールもよかったから、いわば練習台みたいな存在でした。それで毎日黙々と投げていたんですが、ある日『今日、江川が初めて投げるぞ』という話になった。ちょうどブルペンで投げていた僕の真横で、江川がピッチングを始めたんです。
すると、4年生のキャッチャー髙浦(美佐緒)さんがブルペンに現れてマスクをつける。僕なんてブルペンでキャッチャーがマスクをつけたことは一度もなかったですから。しかも高浦さんは、ファーストミットのような長細いミットを用意して座った。噂には聞いていたけど、本当にこんなミットを使うんだと思いましたね。江川が第1球を投げた時です。ボールがホップするんですよ。その球を見て『これはダメだ。こんなんと一緒にピッチャーできんわ』と、出場のチャンスを広げるため、野手一本に絞りました」
髙代は投手としての限界を悟ったが、野手としてはまだ未知数だった。だからこそ、限界を超えるほどの努力を重ねることができたのだ。
寸暇を惜しんでバットを振り続けた髙代は、3年春から試合に出場するようになり、秋には42打数21安打、4打点、打率5割の成績を残し首位打者のタイトルを獲得した。
【江川卓との一度きりの真剣勝負】
そして4年生が引退すると、髙代は特待生や推薦組を押しのけキャプテンに任命された。
「僕が4年生になって新しい寮ができた時、部屋子が江川だったんです。そこであいつに『1打席でいいから真剣勝負してくれ』と頼みました。ショートを守っていると、右打者はみんなタイミングが遅れていて打球は飛んでこないし、逆に左打者は振り遅れで来ることがある。打席から見た本気の江川のボールってどんなんだろうと......。
それで、一度でいいから真剣勝負してみたくなって、『紅白戦の1打席でいいから』ってお願いしました。あいつ、すぐに手を抜きますから、念を押して言いました。後輩に勝負してもらうっていうのも、なんかおかしいですけど(笑)」
髙代としては、江川の本気の球を見たかったこともあるが、心のどこかで「打てる」という自信もあった。
桜前線がようやく関東に到達し、春の香りがふんわりと漂う季節。1週間後に開幕する春季リーグ戦の最終調整のため、川崎市木月の法政グラウンドで紅白戦が行なわれた。
先発の江川は3イニングの予定でマウンドに上がった。紅白戦ということで際どいインコースの球は投げなかったが、それでも打者から快音は聞かれない。
2番に入っていた高代は、最初の打席の時、江川が本気でないのはすぐにわかった。ストレートで押すというよりは、変化球で遊んでいる感じだった。高代はうまくタイミングを外され、凡打となった。
そして予定の3イニングが終わったが、江川が自ら志願してもう1イニング投げることになった。高代の第2打席、ランナーなしの状況で回ってきた。状況は万全だ。
「見せてみろ、スグル!」
髙代は懇願するかのように気合を入れ直す。マウンドの江川は、入念にマウンドをならしていた。これがスイッチを切り替えるための時間だということは、ふたり以外は誰も知らない。江川がどう思っていたかは知らないが、髙代は最初で最後の真剣勝負のつもりで打席に入った。
【胸に刻んだ忘れられない3球】
打席から髙代が鋭い目を送ると、今まで余裕をぶっこいていた江川の顔が突然変わった。シーンが変わったかのように、急に緊張感が走る。
堂々としたワインドアップから、第1球が投げ込まれた。
「ストライク!」
球審を務める下級生が、目を白黒させながらコールする。前年秋に首位打者を獲得し、真っすぐに強いはずの髙代だったが、まったく手が出なかった。それどころか、タイミングが取れないのだ。
「すげぇな」
髙代はあらためて、江川の本気の球に驚いた。ついにホンモノを見たせいか、武者震いする感覚に陥った。ふたりの間の18.44メートルには、張りつめた空気が満ちていた。
2球目を1、2、3のタイミングで振ると、バックネットにファウル。マウンド上の江川は、一瞬「おやっ⁉︎」という表情を見せた。当てたことに驚いたのか、それとも当てられたことが癪に障ったのか、江川の顔が引き締まる。
カウントはツーストライク。髙代の脳裏に「変化球はあるか......」と一瞬よぎったが、真っすぐに絞った。
そして3球目、ゴゴゴゴオーと唸りを上げて襲いかかっていたストレートに髙代は反応しスイングしたが、無情にもボールはキャッチャーのミットに収まっていた。空振り三振である。
真っすぐに強いと自負していた髙代でも、なす術がなかった。ギャラリーもいない、ただのグラウンドでの真剣勝負だったが、今まで味わったことのない興奮を覚えた。
「寮に戻ってからスグルに褒められましたよ。『先輩大したもんですね、当たりましたよ』って。たしかに、"当たった"と思いましたから。とにかくすごかった。こんな球を投げる人間がいるんだなと。真剣勝負をしてくれているって肌で感じましたから」
そううれしそうに語って髙代の表情が、昨日のことのように蘇ってくる。
髙代にとって江川の球は、この紅白戦での真剣勝負のイメージしかない。だから、81年日本シリーズで打席に立っても何の驚きも怖さもなかったのだった。
どんなときでもへこたれず、あきらめず、邁進していた髙代の姿は決して忘れない。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
(本文敬称略)