中田翔インタビュー 前編 プロ野球界では、今年も多くの選手がユニフォームを脱ぐ決断を下した。日本ハム、巨人、中日の3球団…
中田翔インタビュー 前編
プロ野球界では、今年も多くの選手がユニフォームを脱ぐ決断を下した。日本ハム、巨人、中日の3球団でプレーし、計3度の打点王に輝いた中田翔氏もそのひとりだ。
引退後、連日メディアを賑わせている中田氏に、引退を決めた理由、キャリアを語る上で欠かせない栗山英樹監督とのエピソード、18歳の大谷翔平(ロサンゼルス・ドジャース)と出会った時の印象などを聞いた。
日本ハム時代の(左から)大谷翔平、栗山英樹監督、中田翔
photo by Kyodo News
【大阪桐蔭に入るきっかけ】
――中田さんの2025年シーズンは、15kg減量に成功して臨んだ春季キャンプからスタートしました。
「そうですね。状態があまりよくない腰の負担が減らせたら、との思いで体重も一気に落としました。『今年こそやってやるぞ! もしもダメだったら、その時はユニフォームを脱ぐしかない』という強い覚悟でキャンプに臨みました」
――そうして開幕戦のスターティングメンバーに名を連ねましたが、腰痛の再発などもあって出場数は限られました。そして8月に引退を発表しましたが、決断の理由を聞かせてください。
「決断のきっかけになった試合や打席があったわけではなく、心境の変化を感じ取ったことが最も大きな理由です。
ある日、2軍で練習に励む若手選手の姿を見ていて『この子はすごいな。本当に飛ばすな』と感じて。これまではどんなすごい選手を見ても『まだまだ俺のほうがスイングスピードも速いし、飛距離も出ている』と思っていたんですが、これまでの自分にはなかった感情になっていることに気づいて、『もしかしたら、引退に向かって進んでいるのかな?』と悟るきっかけになりました。自分の立ち位置に気づかされてから、決断に至るまでは早かったですね」
――引退してから、すでに各メディアで活躍されていますね。12月12日には東京の三越劇場で、大阪桐蔭高校でバッテリーを組んだ岡田雅利氏(元西武)とのトークショーも行なわれます。高校時代の中田さんは投手でしたが、捕手の岡田さんとはどのような思い出がありますか?
「初めてマサ(岡田氏の愛称)と会ったのは中学生の時です。詳しくは覚えていませんが、硬式野球全国大会の『タイガースカップ』に出た時だったと思います。そこでマサが『大阪桐蔭に行って一緒に野球しようよ!」と声をかけてくれたことが、大阪桐蔭に入学するきっかけになりました。
僕にとってマサは、本当にナンバーワンの捕手。細かい技術的な部分まではわかりませんが、強肩で、とにかく思いやりのあるキャッチャーでした。高校時代の僕は投手をメインに起用してもらっていたので、『捕手といえばマサ』という印象が強く残っていますね」
【ぶち当たった鉄壁の外野陣の壁】
――中田さんは大阪桐蔭で通算87本塁打を放ち、2007年のドラフトで4球団競合の末に日本ハムに入団しました。ただ、プロ入り当初は出場機会に恵まれない時期もありましたね。
「大きな期待を背負ってチームに入ったはずなのに、プロでは全然通用しませんでしたね。特に1年目は、一度も1軍に上がれずにシーズンを終えることになってしまい、挫折や敗北感を味わったり、悩んだりすることもありました」
――それでも2年目から、徐々に1軍での出場を増やしていきます。どのように野球と向き合い、実力を高めていったのでしょうか。
「若いうちはとにかく練習をやるしかない状況でしたから、技術うんぬんよりも、1回でも多くバットを振り込むことを意識していました。そして、『とにかくいろいろなことにチャレンジしよう』という思いで過ごしていましたね。
当時の1軍には鉄壁の外野陣が揃っていました(森本稀哲、稲葉篤紀、糸井嘉男など)から、僕が2軍でそこそこ打ったところで、スタメンで1軍の試合に出られることは少なかった。なので、代打の1打席など、『数少ないチャンスを活かさないと』という思いで、野球と向き合っていました。
あらためて振り返ると、若い頃に2軍で過ごした日々がなければ、今の自分はないと思っています。つきっきりで教えていただいた監督やコーチのみなさんへの感謝も、忘れることはありませんでした」
――3年目の2010年には、65試合に出場して9本塁打と飛躍のきっかけをつかみます。そして4年目の2011年にはレギュラーとして起用され、打率.237、18本塁打、91打点を記録。オールスターにも初選出されました。
「1軍の試合に出始めた頃は、とにかく毎日がむしゃらに過ごしていた記憶しかありません。『まだまだ活躍したうちには入らない』と思っていましたが、少しずつ1軍でも本塁打が打てるようになり、オールスターにファン投票で出場させていただいたり、少しずつ自信が芽生えていきました」
【心の支えにしていた栗山英樹の言葉】
――2012年には、日本ハムの指揮官に栗山英樹監督が就任。中田さんは新チームの4番を任されることになりました。そこから合計10シーズン、栗山監督のもとでプレーしましたが、栗山監督はどのような存在ですか?
「栗山監督から『4番は翔でいく』と言っていただいて、もちろん不安もありましたけど、それと同じくらい『絶対にやってやろう!』という強い気持ちで開幕を迎えました。
父親のようでもあり、僕に変化のきっかけを与えてくださった、僕の野球人生において欠かすことのできない方です。どんなに言葉を尽くしても感謝の気持ちを伝えきれないくらいにお世話になりました。もし、仮に栗山監督と出会えていなかったら、僕はとっくに野球を辞めていたと思います」
――中田さんが感じた栗山監督のすごさとは?
「栗山さんは、選手の意見を頭ごなしに否定することが一切なくて、常に選手の悩みに寄り添い、一緒に考えてくれる方でした。試合でも、チームが負けた時には『俺のせいだ』と言って、いつも選手をかばってくれた。特定の選手にファンの不満の矛先が向かないように徹してくれたことをよく覚えています。なかなかできることではないですよね」
――2012年シーズン、日本ハムはパ・リーグを制したものの、日本シリーズでは巨人に2勝4敗で敗れました。中田さんは第2戦に受けた死球で左手を骨折しながらも出場を続けましたが、栗山監督から声をかけられましたか?
「その日本シリーズに限ったことではないですが、打撃などの細かいアドバイスはもちろん、常に『俺は常に味方だから』『いつも信じている』といった前向きな言葉をかけていただきました。それを心の支えにしていましたね」
――同年の秋には、現在ドジャースで活躍している大谷翔平選手が日本ハムに入団しました。大谷選手と初めて会った時のことを聞かせてください。
「『とにかく気さくで、素直で可愛らしい子だな』というのが第一印象ですね。黙々と練習に取り組む姿もよく覚えていますが、まさかのちに、MLBで本塁打王を獲るような選手になろうとは思いもしませんでした」
――MLBで4度もMVPに選ばれるスーパースターになるとは、まだ思えなかったんですね。
「ただ、"投手・大谷"の投球を初めて見た時に、18歳とは思えない迫力の速球やマウンドでの度胸にとにかく驚かされました。『のちに、すごい投手になるんだろうな』と確信しましたね。当時は打者よりも、投手として感じたすごみのほうが印象的でしたね」
(後編:中田翔が感じたセ・パの野球の違いとは? 海外挑戦を発表した岡本和真、中日で期待の主砲候補にはエール>>)
【プロフィール】
中田翔(なかた・しょう)
1989年4月22日生まれ、広島県出身。大阪桐蔭では甲子園に3度出場し、高校通算87本塁打。2007年高校生ドラフト1巡目で日本ハムに入団。2021年シーズン中に巨人にトレード移籍。2024年中日に移籍し、2025年シーズンをもって現役を引退することを発表した。通算成績は1784試合、1579安打、309本塁打、1087打点、打率.248。3度の打点王のタイトルを獲得した。