新しいスタートを切った清水裕友 photo by Ikeda Seitaro【陥落の裏にあった病】 11月末に開催された…
新しいスタートを切った清水裕友
photo by Ikeda Seitaro
【陥落の裏にあった病】
11月末に開催されたGⅠ競輪祭の3日目。清水裕友(山口・105期)のS級S班からの陥落が決まった。
S級S班は、約2200名いる男子競輪選手のうちトップ9が入れる最上位のクラス。基本的に年末の『KEIRINグランプリ』に出場した選手たちが、翌年の1年間をS級S班として戦うのだが、清水がこの最上位クラスで走ったのは今年が6回目だった。2024年、2025年と2年連続で守ってきたS級S班の称号を手放してしまう結果となったこの1年を清水はこう振り返った。
「ふがいない1年でした。成績のいい悪いではなく、ここまで充実感のない1年はこれまでありませんでした」
今年は6月の高松宮記念杯競輪と10月の寬仁親王牌競輪のふたつのGⅠで決勝に残り、それぞれ6着、4着と、S級S班としての誇りを感じさせる走りを見せていたが、本人はまったく納得いっていないようだった。なかでも1~2月の病気による欠場を悔やんだ。
「病気自体はよくなっていますが、気持ちの面で出鼻をくじかれてしまい、最後までスイッチが入りきりませんでした」
清水は「病気を言い訳にはしたくない。負け惜しみになってしまうので」ときっぱりと語ったが、内実を聞いてみると、成績に病気の影響がなかったとは言いきれなかった。
「昨年9月に落車をして10月に復帰したんですが、そこから呼吸がきついなと思って、今年1月になってからはまったくレースにならなくなってしまって......。病院に行くと肺血栓塞栓症と言われました。『肺にできた血栓が心臓にいくと命の危険があるからすぐに入院する必要がある』と。最初に聞いた時には『まじか!』と思いました」
手術することはなく投薬での治療となったが、入院を余儀なくされた。清水は「お医者さんからはもっと休んだほうがいいと言われましたが、あまり長く休んだら今年を棒に振ると思ったので、1週間で退院させてもらった」とすぐに練習に戻り、戦線に復帰した。
ただこの病気の影響は気持ちの面にも大きなダメージを与えたようで、「諦めたわけではなくて、今年は厳しいかなという気持ちになってしまった」という。さらに「復帰できたことに満足してしまったところもある」とも話す。今でも定期的に検査をしながらの参戦となっているが、清水はそんな様子はおくびにも出さず、懸命に走り続けてきた。
結果的に苦しい1年を送ることになってしまったが、そんななかで清水にはこれまでになかった感情が芽生えていた。それは自分の意識を180度変えてしまうほどの"危機感"。その感情に至った経緯を彼の競輪人生と共に振り返ってみたい。

清水の礎を築いた防府競輪場。この場所で研さんの日々を過ごしてきた
photo by Ikeda Seitaro
【高1での全国制覇に「いいの?」】
防府競輪場のある山口県防府市で育った清水が最初に自転車競技に触れたのは、小学4年生の時。同競輪場で開催された自転車教室への参加だった。2011年に山口国体が開催されることもあって、県全体にスポーツの機運が高まっていた頃のことだった。
「バンクで走った時にはすごくスピードが出て楽しいと思いました。そのままクラブに入って、そこで競輪選手という職業を知りました。いろいろ調べてみたら興味が湧いて、すぐに競輪選手になろうと思いました」
清水はこれをきっかけに山口県ジュニアサイクルスポーツクラブに入会。そこから競輪を観戦するようになり、小学6年の時には当時からトップ選手として活躍していた佐藤慎太郎(福島・78期)の大ファンになっていた。
「(佐藤選手が)GⅡのレースのために防府に来られた時に出待ちをして手紙を渡しました。『将来、前を走れるようにがんばります』と書いて。その時に握手してもらったんですが、その手がすごく柔らかかったことをめちゃくちゃ鮮明に覚えています」
憧れていた選手との触れ合いは、清水の競輪愛をさらに加速させ、中学2年の時にはそれまで継続していた柔道を辞め、自転車競技に専念することにした。「平日でも競輪場を使わせてもらい、高校生と一緒に練習していた」というように恵まれた環境で自転車漬けの日々を送り、めきめきと力をつけていった。
中学時代の積み重ねもあり、高校から自転車競技部に入ると1年生にも関わらずいきなりインターハイのケイリンで優勝してしまう。本人も「いいの?」と驚きの結果だった。
高校2年で迎えた山口国体のケイリンでは2位に入るなど、その後も好成績を出し続け、3年時にはアジアジュニア自転車競技大会のケイリンで2位、チームスプリントで優勝。ジュニア世界選手権にも出場するなど、将来を有望視される選手へと成長した。
高校卒業後に競輪学校(現日本競輪選手養成所)に入学し、在校成績4位で卒業。2014年7月、19歳の時に念願の競輪選手としてデビューを果たした。
競輪が身近にあった環境、そして国体という時流に乗り、清水はなるべくして競輪選手になったと言っても過言ではない。

ひとつずつ階段を上ってきた清水
photo by Ikeda Seitaro
【苦闘からのブレイク】
デビュー開催はすべて1着の完全優勝で制したこともあり、その後も順風満帆な道を歩むかに見えたが、意外にもデビュー後は苦闘の連続だった。
「高校の時の競技の"ケイリン"と"競輪"の違いにすごく戸惑いました。別物だなと。競輪だと前に出た瞬間に脚がいっぱいで、こんなに脚が削られるのかと、想像より何倍もきつかったです」
それでも持ち前のポテンシャルの高さで着実に結果を出していくと、2年後の2016年2月にはS級に昇級。しかしここでも壁が立ちはだかる。
「何をしても勝てなくなりました。A級では先行して粘れたものが、S級で先行すると簡単にまくられる。だったら、自分がまくりに構えようとするとまくれない。本当にどうしていいかわからない状態が半年くらい続きました」
勝てない日々が続いた結果、再びA級に降格してしまう。「その頃から師匠の國村洋さん(山口・80期)に早朝バイク誘導をしてもらいました」と練習量を上げるとともに意識も変化させた。
「どうせ勝てないんだったら先行したほうが力がつくと思って、先行するようになりました。勝ちたいという意識から、レースでしっかりと力を出し切ろうという意識になって成績はよくなりました」
それが2018年の好成績につながっていく。本人も「ミラクル」と表現するほど、まさにブレイクスルーを体現した1年だった。10月に寬仁親王牌で初のGⅠ決勝に進出すると、11月に地元で開催された周防国府杯争奪戦(防府記念)でGⅢ初優勝を飾る。さらに同月の競輪祭でも決勝に進み3着に入った。
「脚力が格段に上がった感覚はなかったんですが、初めてGⅠに出た時に、まったく勝てない相手ではないなという感覚はありました。自分の得意なことをすれば勝負になるかもしれないと。そこから自信がつき始めましたね」
2018年、24歳にして初めて「KEIRINグランプリ」に出場すると、そこから2021年まで4年連続で出場を果たす。若手期待の選手、そしてS級S班として堂々たる走りを見せ、競輪界を代表する選手のひとりとして君臨していた。
包み隠さず今の心情を語る清水
photo by Ikeda Seitaro
【訪れたターニングポイント】
しかし清水はこのS級S班で走った輝かしい4年間を今こう振り返る。
「2018年に(S級S班に)上がってから本当に勢いだけで走っていたような感覚があります。2020年に初めて(全日本選抜競輪で)GⅠタイトルを獲ったんですが、このタイトルを獲るにあたっても苦労はしていないと思うんです。『やっと獲った』という感覚もなかったですし。このタイトルで、気持ち的にひと息ついてしまった感じがあって、そこからよくないです。このまま行くとタイトルを獲って満足してしまった人間になってしまいますね」
この言葉が示すように、最初のGⅠタイトル獲得以降、GⅡタイトルは3回獲得しているものの、GⅠタイトルはゼロ。それは「勢い」が衰えたからなのだろうか。
清水は自分の性格を「よくも悪くも気分屋」と評する。「調子のいい時はいいんですが、不調になるとそこから抜け出せない」という。短期的に捉えると、「初日で変な負け方をすると、それがその後に尾を引いてしまう」そうで、事実、今年のGⅠオールスター競輪では初日から6着→8着→9着、競輪祭では初日から7着→6着と、立て直せないまま決勝への道を絶たれている。
現在31歳の清水は、年齢的にもこれまで成長期であり、大きな好調の波に乗って来られたのかもしれない。しかし2025年の1年間は、年始の病気のこともあり、年間を通して不調の渦から抜け出せなくなってしまっていたようだ。
そんな清水にとってターニングポイントとなる決定的なレースが訪れた。それが冒頭の競輪祭3日目だった。
「レースの負け方にすごくショックを受けました。太田君のスピードについていけなくて、普通にちぎれてしまった。(S級S班からの陥落よりも)そのショックのほうが大きかったです。それまでは脚力差を感じても(病気から)体がよくなればなんとかなるだろうという甘えた気持ちがありました」
太田海也(岡山・121期)はナショナルチーム所属の26歳で、これからの競輪界を背負って立つ若手のホープ。競輪祭でのレースはその太田の後ろに清水がついていた。しかし最終周回に入ったところで徐々に離されると、最後は太田と2車身ほどの差をつけられ、6着に沈んだ。

競輪祭での太田海也(5番車・黄色)と清水裕友(1番車・白)
photo by Takahashi Manabu
この力の差に清水は愕然とし、「意識改革が必須」と言葉に力を込めた。
「昔、『賞金王になりたい』という目標を立てたんですが、選手になって11年、『賞金王になるために何かをしたか』と問われると、自信を持って『これをやった』と言える強いものはなかったと思います。これまでと同じ気持ちでやっていたら、もうグランプリに乗ることも難しいと思っています」
清水に芽生えた猛烈な危機感。再びトップ選手として活躍し本気で頂点を目指したいという渇望が、今彼を突き動かしている。
「練習でも1本1本の意識はすごく大事だと思います。全力を出す練習のなかでもレースを想定したペダリングをするとか、ウォーミングアップでも体を温めるだけではなくて、可動域を広げてより動く幅を広げる意識を持つとか。今まで漠然とやってきたところがあるので、ひとつひとつ課題を持って取り組んでいきたいと思っています」
清水に取材した日は、午前から防府競輪場で選手たちが懸命にペダルをこいでおり、そのなかに、白いユニフォームを着た清水の姿もあった。取材前だったため見た目ではその心理をうかがい知ることはできなかったが、先頭に立って仲間たちをけん引する積極性に、何か感じるものがあった。
「無理やりにでも自分を奮い立たせないといけない」
取材の最後にこう語った清水。この言葉と練習に打ち込む姿に、清水裕友の新章がここから幕を開ける予感がした。
【Profile】
清水裕友(しみず・ひろと)
1994年11月9日生まれ、山口県出身。小学4年で自転車競技を始め、クラブチームで練習に励む。高校で自転車競技部に入ると、1年時にインターハイで優勝。3年時にはアジアジュニア自転車競技大会でケイリン2位、チームスプリント優勝し、ジュニア世界選手権にも出場する。高校卒業後に競輪学校(現日本競輪選手養成所)に入学し、2011年、19歳の時にデビュー。2018年に初めて「KEIRINグランプリ」に出場すると、2021年まで4年連続で同レースへの出場を果たす。その間、S級S班として活躍し、2020年2月には全日本選抜競輪でGⅠ初タイトルを獲得。一旦はS級S班から陥落するが、2024年、2025年はS級S班として活躍した。