ダイヤの原石の記憶〜プロ野球選手のアマチュア時代第21回 オコエ瑠偉(元巨人) 先月28日、巨人はオコエ瑠偉の電撃退団を…

ダイヤの原石の記憶〜プロ野球選手のアマチュア時代
第21回 オコエ瑠偉(元巨人)

 先月28日、巨人はオコエ瑠偉の電撃退団を発表した。海外挑戦などを含め、本人の選択肢を広げるために、あえて自由契約にしたと言われる。この、いわば温情に、オコエはどんな選択で応えるのか。


2015年夏の甲子園でチーム初のベスト4進出の立役者となった関東一のオコエ瑠偉

 photo by Okazawa Katsuro

【感嘆符で埋め尽くされた衝撃の甲子園】

 2015年夏の甲子園。関東一(東東京)のオコエの活躍は、それは衝撃的だった。当時の取材メモを振り返ると......。

「!」「??」「!!!」

 もし目に見えるなら、その空気は感嘆符だらけだった。高岡商(富山)との一戦で、関東一の先頭打者・オコエが第1打席で放った打球は、一塁手の右を強襲する。弾いた打球が、フェンス際まで転がる。それを見たオコエは、ためらいなくスピードに乗って二塁に達した。一塁強襲二塁打。その速さは先刻承知。

 なにしろ東東京大会では、センター前へのふつうの当たりを二塁打にしていたのだ。だが実際、はじいたにしても一塁手が触った打球で二塁に行くのを目の前で見れば、異次元のスピードだった。

 3回には、さらに感嘆符が充満した。この回のオコエは、大量得点で2度回ってきた打席でいずれも右中間に三塁打。とにかく、二塁を回ってからの加速が尋常じゃない。初回の二塁打は挨拶がわりの快足で、49年ぶり、大会史上2人目という1イニング2三塁打に、関東一の米澤貴光監督はこう語ったものだ。

「塁間3歩くらいで行く(笑)。1イニング三塁打2本は、練習試合では珍しくありません。私は社会人野球のシダックス時代に、キューバの代表選手なども見てきましたが、それも含めて会ったことのないレベルのスピード。オコエには『頼むから、ベースだけは踏んでくれ』と言っています」

 ふだんは生真面目で、冗談など言いそうにない米澤監督さえテンションが上がるのである。スピードに乗った時のオコエは、たしかにほれぼれするほどのストライドの大きさだ。

 右中間を割った打球から早合点して、スコアブックに二塁打と書き込んだある記者は、目を上げてみたらオコエが三塁にいて首をひねったとか。元サッカー日本代表の俊足FWで、"ジョホールバルの歓喜"で知られる野人・岡野雅行氏から、かつて「犬に追いかけられたけど、ぶっちぎったことがある」と聞いた時は笑うしかなかったが、オコエの疾走はさながら、獲物に突進するチーターだ。

【三塁到達スピードはプロでもトップクラス】

 だがいくらなんでも、塁間3歩はないだろう。そのことを本人にぶつけると、こんな答えが返ってきた。

「3歩......それはさすがに、人間じゃないですね(笑)。短距離はそうでもないんです。現に、チームでも井橋(俊貴)は僕より速いし、あるいは下級生でも5、6人いますよ。でも僕は、ベーラン(ベースランニング)が得意で。距離が長ければ長いほどよくて。二塁打はトップスピードに乗る前にベースに着いちゃうので、三塁打が一番速いですね」

 50メートル5秒96はむろん俊足の部類だが、ずば抜けて速くはない。だが、三塁到達タイムとなると10・88秒で、これはプロ球界でもトップクラスだそうだ。

 ヒット性の打球を放つと、ふつうは一塁に走りながら3フィートラインあたりから右にふくらみ、一塁を回って二塁をうかがう。だがオコエは、打った瞬間にヒットと判断したら、スタートからゆるい弧を描くように一塁を目指し、左足でキャンバスを蹴って二塁を狙う。

 オコエによると、「そのほうが、いざ二塁に走るときに減速しないし、距離的にも効率がいい」ためで、そのあたりはなかなかクレバーでもある。

 ただ甲子園期間中のオコエは、こと走塁に関しては、本調子ではなかったらしい。

「東東京大会で使う神宮は人工芝で、甲子園の走路は土。感覚の違いがあって、塁間の歩数が合っていなかったんです。だから三塁へのスライディングでも、遠くから滑りすぎて飛んじゃっているんですよね。また、神宮の赤土とでは、滑った時のスピードも違いました」

【中学まではホームランバッター】

 すらりと長い四肢はナイジェリア人の父から受け継いだ。名前の「瑠偉」は、Jリーグで活躍したラモス瑠偉にあやかり、「父はサッカーをやってほしかったと思います」とのこと。だが、小学校で出会った野球にのめり込んだ。

 ジャイアンツ・ジュニアに名を連ねると、中学では東村山シニアでプレーした。少年野球の現場ではその当時、足の速い子どもならほぼ機械的に左打ちにさせる傾向が強かったが、オコエは小、中学時代ともに、左打ちを勧められることはなかったという。これは、右の強打者がノドから手が出るほどほしいNPBのニーズにもかなう。

「左打ちを勧められなかったのは、中学まではホームランバッターだったからでしょう。ただ、高校に入ってもホームラン打者のつもりでいたんですが、なかなか芽が出なかったんです。だから、東京で優勝した1年秋の大会はベンチ外。翌年のセンバツをアルプスから見て、どうしたらベンチに入れるか、自分の持ち味を生かす方法を考えた結果が、鋭いライナーを打つことでした」

 米澤監督も「目の色が変わってきたのは選抜前、1年生の2月頃からです」と言うように、そこからのオコエはまず体づくりから取り組んだ。

「しんどいときこそ、もう1本」と走り込み、体幹トレーニングに汗を流し、体を大きくするために丼飯3杯など1日4、5食。増えた体重を質のいい筋肉にするため、トレーナーの助言を仰いだ。

 体が充実すれば、技術は勝手についてくる。2年の選抜後に定位置をつかむと、2年夏には5試合で打率5割超、さらに秋を経て3年時にはプロ注目の逸材として脚光を浴びることになる。

【スピードが生んだ超美技】

 夏の甲子園3回戦の中京大中京(愛知)との試合では、並外れた守備能力の高さも見せている。初回から二死満塁のピンチ。さらにオコエの守るセンターの左に鋭いフライ。抜ければ一挙3点......だが、さながら短距離走者のスピードでオコエが一直線に落下点に疾走し、長い左腕を懸命に伸ばすと、グラブの先にボールがすっぽりと収まった。

 立ち上がりの3失点をゼロにする超美技には、「オコエなら、もしかすると......」と願った米澤監督も、4万7000のスタンドも、割れるような拍手だ。

 過去、特大アーチや150キロ超の剛球でスタンドを魅了した高校生は何人もいる。だが、その足でここまで人気を得た球児は記憶にない。盗塁をしまくったのなら、足の速さはわかりやすい。だが意外なことに、この甲子園でのオコエは盗塁0。つまりファンは、数値ではなく長打や美技そのものにわくわくしたのだ。鮮烈なスピードは、それほど衝撃的だったということだろう。

 興南(沖縄)との準々決勝では、厳しく内角を攻められ、4打数無安打2三振と精彩を欠いた。だが、3対3と同点の9回、二死二塁から苦しんでいた内角低めの直球を「100パーセント読んで」と巻き込むように強振すると、ライナーがレフトスタンドに飛び込んだ。夏の大会で関東一に初のベスト4進出をもたらす決勝2ラン。これが高校通算36本目のアーチだった。

 この夏の甲子園4試合で残した成績は、18打数6安打6打点、盗塁0。数字だけを見れば、突出しているわけではない。だが、ファンの記憶には「オコエ劇場」と呼ばれた鮮烈な衝撃が、今も色濃く刻まれている。

 15年、ドラフト前に取材した時のオコエはこんなことを語っていた。

「1年前には、いまの自分は想像できませんでした。この間の通学中に『オコエさんですか?』と、知らない人に声をかけられたんですよ」

 1年後。いまからは想像のつかない舞台で活躍しているオコエを見られるだろうか。