MLB中継解説者・武田一浩氏、先発に再転向して再び10勝 1軍での登板指令を拒否して2軍調整を続けていた――。NHKのM…

MLB中継解説者・武田一浩氏、先発に再転向して再び10勝

 1軍での登板指令を拒否して2軍調整を続けていた――。NHKのMLB中継解説者として活躍中の野球評論家・武田一浩氏は、1987年にドラフト1位で日本ハムに入団。4年目の1991年には最優秀救援投手のタイトルを獲得した。1992年からは本格的に先発転向。翌1993年には10勝を挙げたが、1995年はプロ8年目で初めて1軍で勝利を挙げられなかった。

 志願して先発となった1992年は「前年までの疲れもあって、肩の調子が良くなかった」という。調子が上がらないまま、シーズン途中からは救援に回るケースも増えていった。「先発なのかリリーフなのかよく分からない使われ方でした」。22試合に登板して4勝9敗と不本意な成績で終了。先発は10試合だけだった。

 翌1993年は就任した大沢啓二監督に先発一本を直談判。「『オープン戦で結果を出したら先発をやらせてやる』と言われて、オープン戦で完投しました」。春先から飛ばし気味に調整をして開幕ローテーション入りを果たした。

 開幕2カード目の初戦、4月13日のダイエー戦でシーズン初先発。「そこでも試練がありました」と振り返る。カード頭で好投手との投げ合いが続き、好投してもなかなか白星がつかめなかった。6月2日のオリックス戦も勝てず先発8試合で0勝4敗。ただ、防御率は2点台をキープしており、首脳陣は我慢の起用を続けていた。

 迎えた6月9日のダイエー戦で13-0の完封勝利。長いトンネルを抜けると、一気に波に乗った。そこから先発シーズンでは初となる2桁10勝(8敗)をマーク。自ら試合をつくって勝ち切る。抑えで10勝13セーブだった1990年とは違った感覚があり「初めて先発で10勝できたので自信になりました」と振り返った。

8年目に首脳陣と衝突…1軍昇格の連絡も拒否

 しかし1994年は、再び右肩の状態が思わしくなく5勝止まり。そして上田利治監督が就任した1995年、武田氏は左足の怪我で開幕を2軍で迎えた。5月に1軍復帰したが、2試合に登板しただけで再び2軍落ち。その理由を「投手コーチと喧嘩したんです。いろいろ理不尽なことを言われて、自ら2軍に行ったんですよ」と説明した。

 怪我しているわけではなく、1軍のローテーション投手が投げるだけに、2軍では格の違いを見せつけて無双状態。何度も1軍から昇格して投げるよう連絡が入ったという。「『嫌です』と言って行きませんでした。マネジャーから『投げてくれ』って電話がかかってきたんですけど『嫌です』とひたすら断っていました。今だったら絶対にダメですよね」。ある意味、首脳陣への“造反”だった。

 登板を“拒否”し続けた1軍では8年目で初の白星なしに終わったものの、2軍では防御率1.62と圧倒的な成績でタイトルを獲得。ただ、首脳陣との間に入った亀裂は修復できなかった。「もう『トレードに出してください』と球団に言っていました」。トレード要員となった右腕は同年オフ、ダイエーにトレード。同じパ・リーグ球団で再出発を図り、その反骨心は後に最多勝という勲章となって返ってきた。(尾辻剛 / Go Otsuji)