元阪神・中込伸氏が語る、台湾球界の大規模な八百長問題 思わぬ事態になった。元阪神右腕の中込伸氏(西宮市甲子園七番町「炭火…
元阪神・中込伸氏が語る、台湾球界の大規模な八百長問題
思わぬ事態になった。元阪神右腕の中込伸氏(西宮市甲子園七番町「炭火焼肉 伸」店主)は、2008年シーズンから台湾プロ野球・兄弟エレファンツの投手コーチに就任した。2005年の現役引退時に所属したチームに指導者として復帰し、選手からは「兄貴」と慕われた。2009年後期には監督に昇格し優勝にも導き、結果も出したが、そこから立場は一気に暗転。台湾球界に勃発した八百長問題に巻き込まれてしまった。
2007年末に中込氏は兄弟に投手コーチとして復帰した。背番号は77。「これはやっぱり(中日、阪神などで監督を務めた)星野(仙一)さんが77だったから。まぁ、それはたまたまですけど、僕はぞろ目好きなんですよ」。阪神時代の背番号は99→1→55、兄弟でも選手時代は55。1995年から2000年までの“1番期間”を除き、ぞろ目だったこともあって「77」を選択し、投手陣の立て直しに全精力を注ぎ込んだ。
兄弟に2005年まで所属していただけに、旧知の選手も多く「兄貴って呼ばれていました」と慕われていた。2009年後期に中込氏は監督に昇格したが、選手たちからの要望でもあったという。「あの年は前期の成績が悪くて、選手たちが、(球団)社長に『監督を兄貴にやらせてください』みたいなことを言って、僕が監督をやることになったんです」。阪神時代の“野村克也監督の教え”もうまく取り入れて、後期優勝。一気に株も上がったはずだった。
ところが、流れは逆になった。10月末、台湾球界に大規模な八百長問題が発覚し、兄弟の選手も逮捕された。栄光の優勝監督から一転。11月には中込氏も関与を疑われ、台湾検察当局から事情聴取を受け、翌2010年2月に詐欺罪で起訴された。その間に監督を解任され、すべてを失ってしまった。八百長に関わった覚えがなかったにも関わらずだ。なぜ、こんな事態になってしまったのか。
最大のポイントは、選手たちを八百長につなぐ“仲介人”が中込氏の教え子だったことだ。「(2005年に)僕が兄弟で選手兼コーチだった時にいたピッチャー。こいつ、ものになるわと思って、教えていたんだけど、僕が(その年のオフに現役を引退して)日本に帰った後、その子がクビになった。その時も何か問題があったと噂されていたんですけど、台湾の関係者から『まだ野球をやりたいと言っているから日本で面倒を見てくれないか』と頼まれたんです」と明かす。
中込氏は現役引退後の2006年に知人の勧めで沖縄・那覇市を本拠地にする社会人野球クラブ「サムライ那覇」を設立し、監督を務めており、そこに、その選手を在籍させることになった。「『道具は揃えるけど、給料は出ないよ。それでもいいのか』という話もしてね。僕が自分の金を使って、一緒に練習させて、試合にも投げさせて、1回、プロのテストも受けさせた。だけど、やっぱりちょっと駄目で、その子は『もう諦めるよ』と言って台湾に帰ったんです」。
その後、「サムライ那覇」の運営も難しくなり、中込氏は兄弟からアプローチを受け、投手コーチとして復帰。「その時にその子から『先輩、あの時はありがとうございました』と挨拶があった。食事に行くことになって『お前、どうやねん、もう野球をやる気がないのか』と言ったら『指導者の方になりたい』って。で、ピッチャーの使い方とかを聞かれた。負けている時は諦めて“負けピッチャー”を使うとか、そんな話をしたんですけどね」と当時を振り返る。
野球賭博に巻き込まれ起訴、家族のために下した決断
これが後に響いた。当時の中込氏は全く察知しておらず、後になって分かったことだが「その子は、もうその時からガチガチの野球賭博の仲介人だった」という。「それで僕に聞いた話から、“負けピッチャー”を買収していたんです。完璧に負けるようにね」。さらにマイナス材料になったのは、その時に「食事代とか帰りのタクシー代を出してもらった」こと。「『先輩、(沖縄では)お世話になりました』ってことだったんだけど、それが賄賂になると言われて……」。
実のところ、監督だったシーズン中、おかしなプレーを目にしていたという。「ピッチャーだったら急にストライクが入らなくなって四球を出したり、一塁へ牽制悪送球をしたり、ワイルドピッチをしたり、まぁ、これが実力なのかなあぁ、力不足なのかなぁって考えながら、思ってはいけないことだったけど、給料が安いし、もしかして八百長? って半信半疑だったというか……」。ただその疑念が、まさか自分にまでふりかかってくるとは当然、思ってもいなかった。
「(仲介人の)その子が最初に捕まって、いろんな人の名前を出した。僕のところには『先輩、すみません、ちょっと名前を使わせてもらいました』と電話があった。『(罪を)認めてください。認めたら(日本に)帰れますから』とも言われたから『いや、それはないやろ』って断りましたよ。それで、起訴されて、裁判になった」。状況は深刻だった。「裁判が終わるまでには2、3年かかる。その間は台湾から出られないし、仕事もできない、ということで……」。
中込氏にとってはあまりにも辛い現実だった。「八百長をやっていたらお金があったかもしれないけど、やっていないんだから、そんなものはない。だから日本にお金も入れられない。家族はどうやって生活するのか。それを考えて、弁護士の先生にも『日本に早く帰れる方法で進めてください』と言いました。(罪を)認めれば執行猶予がついて日本に帰れるということだったので『じゃあ認めます。それでいいです』と……」。
家族のことを思い、闘わずに方向転換。「妻は『ちゃんと闘わないと。これからの生活のこともあるし、ちゃんとしなきゃ駄目だよ』と言ってくれましたが、僕がそう決めました」。2010年7月の公判で中込氏は起訴事実をすべて認めた。12月には詐欺罪で懲役1年8か月、執行猶予4年の有罪判決が確定。2021年2月に日本へ帰国した際には、報道陣に八百長への関与をきっぱりと否定した上で「家族の生活があるので、日本に早く帰るにはしょうがなかった」と説明した。
当時を振り返りながら中込氏は「野球か家族か、どっちを選ぶかとなれば、そりゃあ家族ですよ。その先も、プライドがなかったら何でもできる。そんな気持ちでした」と語る。周囲にどう受け取られようと、それが真実。腹を括っての新たな“闘い”の始まりだった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)