江川卓、知られざるアメリカ留学記(後編)怪物 江川卓伝〜連載一覧はこちら>> 1978年3月、ドラフト1位指名を受けたク…

江川卓、知られざるアメリカ留学記(後編)

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 1978年3月、ドラフト1位指名を受けたクラウンの入団を拒否し、アメリカへと野球留学に旅立った江川卓は、7月からアラスカでのサマーキャンプに参加することになった。

 全米の優秀なプレーヤーを選抜して、4チームで構成されるサマーリーグのレベルは高い。のちにメジャーに進むプレーヤーたちが参加するだけに、スピード&チャージの本場のベースボールが繰り広げられた。


アメリカ留学時代の江川卓(写真左)

 photo by Sankei Visual

【ドジャースから非公式のオファー】

 江川はグレイシャー・パイロッツのローテーションに入り、4勝3敗の成績を挙げた。そして非公式ながら、ある人を介してロサンゼルス・ドジャースから誘いを受けた。

 当時はまだ、日本人選手がメジャーリーグに挑戦するという発想自体がなかった。1964年から2年間、村上雅則がサンフランシスコ・ジャイアンツで活躍したが、それ以降、誰ひとりとしてメジャーを目指す日本人選手はおらず、挑戦すらしていなかった。いわばメジャーリーグは、"未知の領域"だった。

 1978年には元巨人の小川邦和がマリナーズのキャンプに参加したものの、すぐにリリースされ、その後はセミプロとしてプレーしている。そもそも小川自身も、本格的にメジャーを目指すつもりではなく、「英語と本場の野球を勉強するため」の渡米だったという。それほどまでに、当時の日本とアメリカの野球の世界には、とてつもない距離があったのだ。

 江川はアメリカ留学中に受けたある雑誌インタビューで、「スカウトがちょこちょこ声をかけてくるので、『ちょっと待ってくれ』と言ってあるんだけど」と、やや困惑した様子で語っている。興味を示した球団は、ドジャースを筆頭にエンジェルス、タイガース、フィリーズなど複数に及んだとされ、そのなかでもドジャースが江川に非公式の打診を行なったという。

 これは江川自身がYouTube内でも話していることでもあり、決して自分のことをひけらかさない江川が言う以上、確かだろう。

 そもそもドジャースには、多様性を重んじる球団理念が根付いている。まだ人種差別が日常的に横行していた1945年、黒人選手のジャッキー・ロビンソンを入団させた歴史を持つことも、その背景にあるのだろう。以降、ドジャースは中南米の選手を積極的に獲得するなど、ワールドワイドなチームづくりを進めてきた。

 その象徴的存在が、メキシコ出身のサウスポー、フェルナンド・バレンズエラである。彼は1979年に入団し、1981年には13勝7敗、防御率2.48という成績で、史上初となる新人王とサイ・ヤング賞の同時受賞を成し遂げた。さらに1986年には21勝11敗で最多勝を獲得するなど、80年代を代表する大投手として名を刻んでいる。

【江川卓に向けられた懐疑と期待】

 また、当時ドジャースのフロントには、アイク生原(生原昭宏)がいた。アイクは、巨人や中日のベロビーチキャンプを実現させ、日本から留学する選手たちの面倒をみるなど、日本の野球人にとっては"アメリカでの父親"のような存在だった人物だ。

 1981年からはピーター・オマリー会長補佐として、ドジャースの経営や戦略、さらには日米間の交流に尽力した。こうした背景もあり、ドジャースが日本人選手を獲得してマーケットを広げたいと考えたのは自然な流れだった。そして、そのターゲットとして白羽の矢が立ったのが、当時アメリカに野球留学していた江川だったのである。

 そもそもサマーリーグは、メジャーのスカウトにとって視察の必須の場であり、日本だったらスカウトにとっての甲子園大会に近い位置づけと言えるだろう。そんな場所で、二度も1位指名されながら入団を拒否し、野球を続けるためにアメリカまで渡って"野球浪人"をしている江川の情報は、メジャーのスカウトたちにもチラホラ入っていた。

 しかし、当時のメジャー球界では日本人選手の実力をほとんど評価しておらず、スカウトたちは半信半疑のままスタンドから江川の投球を見守った。体がまだ絞りきれていないせいか、球のキレはいまひとつだったが、指にしっかりかかった時のボールはすさまじい威力を放っていた。要は、その球をどれだけ持続して投げられるか。その一点に尽きた。

 183センチ、90キロを超える堂々たる体躯を持つ江川だが、大学の勝ち点制度によるリーグ戦に合わせて技巧派へと転じたことで、高校時代のように打者を圧倒する投球は影を潜めていた。大学4年間、長いイニングを全力で投げるスタイルを封印していた以上、本格派としての感覚を取り戻すには時間がかかる。

 それは、「空白の一日」を経て巨人に入団した際、長嶋茂雄監督がひと目見て「元に戻るまで3年はかかる」と断言したほどである。大学4年間、さらにアメリカでの1年を加えたブランクは、江川の才能を考えれば大きなロスだった。

 結局、3カ月後に控えていたNPBのドラフトを意識していた江川にとって、ドジャースからの誘いを真剣に受け止めることはできず、話はいつの間にか立ち消えとなった。もしこの時、江川がドジャース入りを決断していたら......。日米プロ野球の歴史も違ったものになっていたかもしれない。

【江川卓の心を揺さぶった9球の全力勝負】

 1978年10月、ドジャース対ヤンキースのワールドシリーズを駐在員の家でテレビ観戦していた江川は、ひとりの選手に注目していた。

 その選手とは、当時ドジャースの若き新鋭、ボブ・ウェルチである。

 初戦はドジャースが11対5で快勝。第2戦もドジャースが4対3と1点リードしたまま迎えた9回表、一死一、二塁の場面で、新人のウェルチがマウンドに上がった。まず3番サーマン・マンソンを2球でライトフライに打ち取り、ツーアウト。ここで打席に入ったのが、ヤンキースの4番、レジー・ジャクソンだ。

 ジャクソンは初戦でシリーズ第1号を放ち、この第2戦でも3回に先制の2点タイムリーを放っている。

 若武者ウェルチは、果敢にも初球ストレートで空振りを奪う。続く2球目、内角高めへの速球でレジー・ジャクソンに尻もちをつかせた。これが効いたのか、その後の3球は連続してバックネット方向へのファウルで、ボールが前へ飛ばない。その後、フルカウントになり、迎えた9球目。内角へのストレートで空振り三振。ドジャースが4対3で勝利した。ウェルチが投じた9球は、すべてストレートだった。

 この場面をテレビで見た江川は珍しく興奮し、「自分もあれほど迫力のあるバッターと、あれほど迫力のある速球で勝負してみたい」とインタビュアーに語ったほどだった。

 江川は、1976年の日米大学野球第3戦でウェルチと投げ合っている。その記憶があっただけに、160キロ近いストレートで押しまくるウェルチの投球に、かつての自分の姿を重ね合わせたのかもしれない。

 たった1球でもいいから、全盛期の江川のボールをメジャーの舞台で見たかった。