サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニ…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回のテーマは、「まさに隔世の感」。
■全104試合中「78試合」がアメリカ開催
「アメリカのワールドカップ」である。来年のワールドカップは、カナダ、メキシコとの「北米3か国」の共同開催なのだが、実際には、カナダとメキシコではそれぞれ13試合ずつしか行われず、全104試合のちょうど4分の3、すなわち75%に当たる78試合がアメリカで開催される。「2回目のアメリカ大会」と表現しても、あまり文句は出ないだろう。
そのアメリカ国内がインフレのうえに、1ドルが160円近くという「円安」のダブルパンチにより、日本人の感覚ではとても物価の高い国になってしまっている。今年のFIFAクラブワールドカップを取材に行った仲間の記者たちの話によれば、「ホテル代は4万円、ファーストフードの店に行っても1食3000円ぐらいかかってしまう」という。
それは、31年前、1994年にアメリカで開催されたワールドカップのときとはまったく状況が違う。物価や為替レートだけの話ではない。たくさんの面で、今回は、「31年前のワールドカップ」とは大きく違うのである。今回は、1994年アメリカ・ワールドカップがどんな大会だったのか、簡単に振り返ってみたい。
Jリーグのスタートは、1年前の1993年のことだった。それまであまり人気のなかったサッカーという競技がいきなり国民的な注目の的になり、日本全国に熱狂的なファンが誕生した。日本が「サッカー国」になって初めて迎えたワールドカップ。日本からの取材希望者も一挙に増えた。あまりに多くなったので、取材パスを割り当てる日本サッカー協会が悲鳴を上げ、最終的に大がかりな「抽選会」まで行うはめになる。
■地上波3局で「日本戦や決勝戦」を中心に放送
ワールドカップ・アメリカ大会のテレビ放映はNHKだった。これは1978年に始まった国際サッカー連盟(FIFA)とNHKを含む世界の「公共放送連合(インターナショナル・コンソーシアム)」の契約が更新されていたためである。
FIFAはワールドカップをできるだけ多くの人に見てもらうことを目指していた。そのために、商業的な民間放送局ではなく、日本で言えばNHKのような公共放送で中継してもらおうと、「コンソーシアム」と契約を結んだのである。ただその狙いは、「世界大衆のスポーツだから」という清いものなどではなく、視聴者数を増やすことによって大会の公式スポンサーを獲得しようという意図だった。
その契約が更新され、1990年から1994年、1998年までの3大会の放映権料は3大会総額で3億4000万スイスフランとなっていた。1994年当時の1スイスフランは約75円だったから、3大会でFIFAが手にするテレビ放映権収入は、255億円程度、1大会100億円に満たないほどだったのである。そのうえ日本は「サッカー後進国」のひとつだったから、NHKに多額の放映権料が割り当てられるわけではなく、単独で対応することができた。NHKは地上波とBSをフル稼働し、1990年イタリア大会に続いて全52試合を放映した。
「テレビ放映権が最も大きな収入になる」とFIFAが気づき、「コンソーシアム」と手を切って一挙に1大会1000億円を超す放映権収入を得るようになるのは、2002年の日韓大会以降のことである。そして2026年大会では、FIFAが要求する放映権料総額は6000億円規模になると言われ、日本にも推定350億円が割り当てられたことで交渉は難航したが、今回はDAZNが全試合をネット配信し、NHK、日本テレビ、フジテレビの3局が日本戦や決勝戦を中心に地上波で放送することになりそうだ。
■メディアは「紙からデジタルへ」の移行期だった
記者やカメラマンの仕事も、現在とは大きく違った。1994年大会の取材や原稿送りは、「紙からデジタルへ」の移行期だった。
1984年にフランスで欧州選手権(EURO)を取材したとき、隣に座ったフランス人記者が小さなパソコンで原稿を打ち、その記事を「音響カプラー」を使って会社に送ろうとしているのを見て驚いた。記事のデータを「ザー」というような音声に変換し、それを大きなヘッドホーンのようなもので拾って電話線に乗せ、会社のコンピューターに送り、そこで文字データに戻すのだという。サポーターの歓声が入ってエラーが出るとこぼしていたが、原稿といえば手書きしか考えられなかった日本人としては大いに驚いた。
26文字といくつかの記号、0から9までの数字の組み合わせだけで表現できる欧州の言語と比較して、ひらがな、カタカナ、そして数千もの複雑な漢字を操らなければならない日本語の「機械化」、すなわち「日本語ワープロ」の開発には大きな時間がかかり、ようやく普及を始めたのは1980年代だった。記者がその小型機を現場に持ち込み、電話線を使った「パソコン通信」で原稿を送るようになったのは1990年代になってからだっただろう。