サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニ…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回のテーマは、「まさに隔世の感」。
■フランス大会でも「デジタル機」はひとりだけ
1990年のワールドカップ・イタリア大会では日本の新聞社も全社ファクス送稿だった。原稿用紙に手書きし、それをスタジアムに隣接するメディアセンター内の電話局に持っていって送信してもらうのである。
しかし、この1994年アメリカ大会では、日本の記者も大半が「パソコン通信」で原稿を送るようになっていた。その多くが使っていたのが、富士通・オアシスのノート型ワープロだった。私も、新聞社や雑誌社への原稿送りはすべてメディアセンターの電話線を経由してワープロ通信で行っていた。
ただ、写真はまだデジタル時代にはなっていなかった。1994年大会時点では、すべてフィルムで撮影し、現像に回さなければならなかった。写真を電送するには、フィルムを円筒形の機械に貼りつけ、スキャンして、いわばファクスのように送るのである。当然、こんな装置を一介のフリーランス記者が持っているはずはない。送稿する新聞社の写真記者に渡し、送稿してもらうのである。
1998年には記事作成と送稿では「デジタル化」が完了し、私もノートパソコンと発売されたばかりのコンパクトデジタルカメラを手にフランスに向かった。ただプロのカメラマンはこの大会までフィルム撮影が圧倒的多数派で、日本のフリーランスのカメラマンでデジタル機を使っていたのは富越正秀さんひとりだけだったと記憶している。
■日本人にとって「モノが安い国」アメリカ
今回の「アメリカ大会」と大きく違うのは、冒頭でも触れた「おカネ」の問題である。アメリカドルは1980年代の半ばには250円ほどだったが、それから急激に下がり始め、1994年には約100円になっていた。これは「ドル安」というより「円高」の状況だったが、ともかく1ドル100円である。アメリカを訪れる日本人にとって非常にラッキーでハッピーな時期だった。
「円高」なのだから、1ドルの価値はアメリカ国内では低くなっているわけではなく、「物価」自体も高くはなっていなかった。その双方の効果で、円を財布に入れた日本人にとって、アメリカは「モノが安い国」だったのである。
この大会から、FIFAが「アコモデーションビューロー」をオープンし、大会のための公式宿泊施設を確保し、メディアや観戦客に販売した。私はそれを利用し、大会期間を通じての宿泊施設を大会前にすべて確保することができた。4年前のイタリア大会ではホテル探しがずいぶん大変だったのだが、この大会ではスムーズにいった。
申し込み、送金するとバウチャー(予約・支払証明書)が送られてくるシステム。申し込みが少し遅くなった仲間の記者は「日本出発までにバウチャーが届くか」と心配していたが、無事手にして出発したと聞いた。
■ひとり7500円で「5つ星ホテル」に宿泊
何よりも、そのホテルがとても安かったのである。開幕戦の行われたシカゴや決勝戦の会場となったロサンゼルスでも、超一流ホテルが1室1万5000円ほどだった。私は仲のいいカメラマンの今井恭司さんと同じ日程にして1室をシェアしたのだが、ひとり7500円ほどで5つ星のホテルに泊まることができたのだ。
たとえば開幕戦までのシカゴでは、Chicago Hilton & Towersというところに宿泊した。行ってみると、そこは、前年に公開されて大ヒットしたハリソン・フォード主演の映画『逃亡者』のラストの舞台となったところだった。
バウチャーは1泊分ごとに機械印刷された封筒形式になっており、チェックインのときにそのままホテルのフロントに渡せば部屋に通されるという形だった。封筒の中身を知りたがった仲間の記者が、たまたま予定の変更で使わなかったバウチャーがあったので破ってみると、中には「バンク・オブ・アメリカ」の小切手が印刷されており、彼が「アコモデーションビューロー」に支払った金額の半額の数字が印字されていたという。
スイスの会社が運営していた「アコモデーションビューロー」はとんでもない暴利をむさぼり、このころから「アベランジェ-ブラッター体制」のFIFAの腐敗が始まっていたのだが、それでも「強い円」を持つ日本人の私たちにとっては安い宿泊だった。