<寺尾で候>日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。 ◇ ◇ …
<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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人は会えるときに会っておくべしと、そんな言いつけを守れずに悔いが残った。ついに歴代2位の通算596盗塁を誇った南海ホークスの名選手、広瀬叔功(ひろせ・よしのり)との再会を果たすことができなかった。
11月2日午後4時半、広島市内の病院で、心不全のため死去。89歳。広瀬が天命をまっとうしたことを知らされたのは、夫人の祀(示へんに己)子(としこ)からの電話だった。
「穏やかで、やさしくて、人生で一番いい顔をしていました。もう家に帰ることができないなら、せめて苦しまずにと願っていました。あなたにお伝えした後、今から名球会に連絡しようと思ってるんです」
定期的に経過を把握していたつもりで、面会できる状況になれば駆けつけると約束していた。ただ病院側から厳格なルールを示され、最後までお目にかかることができなかったのは、痛恨の極みというしかない。
1961年(昭36)から5年連続で盗塁王に輝いた。歴代1位の福本豊(阪急)がマークした通算1065盗塁とは大差がついているが、盗塁成功率8割2分9厘(通算300盗塁以上)は、福本(7割8分1厘)を上回る。
拙者の手元にあるのは14年7月25日、マツダスタジアムの記者席で、広瀬が福本と肩を組んだ写真だ。南海、阪急でパ・リーグを支えた2人のプライベートツーショットは貴重で、後輩にあたる“世界の福本”から「後でちょうだいな」とお願いされたほどだ。
名監督の鶴岡一人からは「チョロ」と呼ばれた。塁上をチョロチョロするという意味に、地元の方言からつけられたようだ。ご一緒した取材現場では、今まで隣にいたはずが、ちょっと目を離すと姿をくらまし、いつの間にか再び戻ってきた。
まるで“忍者”のような身のこなしをする野球人に接したのは、広瀬と“牛若丸”と名付けられた吉田義男の2人だ。とにかくすばしっこい動きからは、「天性の走り屋」だった昔取った杵柄を感じたものだ。
しかもタイトルに執着心はなかった。福本に記録を抜かれたことにも特別な感情はない。「盗塁数」にこだわる欲求は皆無に等しく、同郷で「親分」と慕った鶴岡が喜ぶだろうと思ったときに走った。そんな“天才”の話を聞くのは、いつも楽しみだった。
ただ広瀬の盗塁術で1つだけ挙げるとすれば、「スタート」に固執したことだろう。高い成功率の裏にあるのは「いいスタートを切るには、けん制された際にうまく帰塁することが大切だ」という逆説的な考え方だった。
「いかなるけん制球を投げられても、セーフになって一塁に戻らないといけない。その技術があれば、素早いスタートを切ることができる。おれはどんなけん制を投げられても絶対に帰れる自信があった。例えば稲尾(和久=西鉄)はけん制がうまいピッチャーだったが、それをかいくぐって走った」
高いレベルにあったのは俊足だけではない。南海が阪神を下し、2度目の日本一を達成した64年は初の首位打者(3割6分6厘)に輝いた。自己最多シーズン72盗塁も記録。通算2157安打。99年に野球殿堂入りした。
遠方からファンがサインを求めて自宅にくるというので、地元自治体で危機管理を担当する知人にパトロールを依頼したこともあった。ある日、手土産を持参すると「わしの女房の実家近くの和菓子を買ってくるとは…」と驚かれたこともなつかしい。
おおらかだが、そんな繊細なところもちゃんと見えていたのだろう。そんな観察眼がないと、プロの厳しい世界でピッチャーのスキを突き、あれだけ走りまくることはできなかった。南海ホークスを愛した時代の寵児が星になった。
(敬称略)