4年時に念願の2区を走り区間賞獲得した中大・藤原正和(中) photo by 代表撮影/時事通信箱根路を沸かせた韋駄天た…



4年時に念願の2区を走り区間賞獲得した中大・藤原正和(中) photo by 代表撮影/時事通信

箱根路を沸かせた韋駄天たちの足跡
連載04:藤原正和(中央大/2000〜2003年)

いまや正月の風物詩とも言える国民的行事となった東京箱根間往復大学駅伝競走(通称・箱根駅伝)。往路107.5km、復路109.6kmの総距離 217.1kmを各校10人のランナーがつなぐ襷リレーは、走者の数だけさまざまなドラマを生み出す。

すでに100回を超える歴史のなか、時代を超えて生き続けるランナーたちに焦点を当てる今連載。第4回は、藤原正和(中央大)を紹介する。

【2区を走れない悔しさで5区を走っていた】

 山上りの5区とエース区間である花の2区。平成以降で、箱根駅伝を象徴する両区間を制した選手はひとりしかいない。唯一無二の男、それが中大・藤原正和だ。

 2区と5区はともに"上り"がポイントになる。しかし、藤原は意外なことに"上り"より"下り"を得意としていた。しかも箱根駅伝でヒーローになる男は高校時代、名門校で"主役"になることができなかった。

 西脇工業高時代(兵庫)は故障に悩まされたこともあり、全国高校駅伝の出場は一度だけ。3年時(1998年)は優勝メンバー(中尾栄二、藤原正和、清水将也、藤井周一、清水智也、中谷圭介、森口祐介)になったが、出走区間は距離の短い2区(4位)だった。

 名門・中大に入学するも同期のなかでは「7~8番目の選手」で、当時は「1回でいいから箱根駅伝に出たい」という思いだったという。しかし、藤原はそこから日本学生長距離界のエースに駆け上がっていく。

「高校時代の下積みが大学で花開いたというか、5月に初めて出場した10000mを29分22秒で走って自信がついたんです。7月に山上りの練習をしたときに好タイムが出て、『もしかしたらいけるかもしれない』とさらに自信を得られたのが、上を目指すきっかけになったと思います」

 1年時は全日本大学駅伝で最終8区に抜擢されると3人抜きの区間4位と好走。箱根駅伝は2区を予定していたが、5区候補の選手が故障したことで、上りでも強さを発揮していた1年生エースがコンバートされるかたちになった。結局3年間、5区を務めることになるのだが、「僕は2区を走れない悔しさで5区を走ったんです。それがエネルギーになったのかもしれません」と藤原は振り返る。

 1年時(2000年)の箱根は1時間11分36秒で区間賞を獲得。8位から4位にチーム順位を押し上げている。翌年は、「往路を制して、総合優勝へ」というチーム戦略のために5区を出走。区間賞は2秒差で逃したが、法大と順大を抜き去り、37年ぶりとなる往路優勝のゴールテープに飛び込んだ。

 3年時はユニバーシアードのハーフマラソンで金メダルを獲得。2区の準備をしていたものの、故障のため11月下旬から3週間ほど走ることができず、再び山へ。万全な状態ではなかったが、区間3位でまとめている。

「5区は初めて走る場合、勢いで上れる部分もあるんです。でも、あの苦しさを知ってしまうと、2回目以降は恐怖心が出てきます。僕は上りよりも下りが得意だったので、5kmまでにタイムを稼いで、山頂まではひたすら我慢。下りに入ってペースアップする。そんな走りでした」

【最初で最後の2区で区間賞、そしてマラソンへ】

 そして最後の箱根駅伝(2003年)はついに花の2区に登場する。8位で走り出すと、トップを奪取。区間歴代4位(当時)の1時間07分31秒で走破して、箱根路のヒーローになった。

「最後はわがままを言って、2区を走らせてもらいました。基本、風が追うコースですし、前半の10kmをガンガン飛ばしていきましたね。権太坂のところで多少タイムは落ちましたけど、アップダウンを使ってうまくリズムをとり、最後まで押しきれたかなと思います。

 5区をやったから2区終盤の上りをうまく走れるかというと、それは別物です。僕はいけるところまでガンガン攻め込んでいくというスタイルでしたけど、当時はマラソン練習をやっていたので、23kmなら絶対に持つという自信がありました」

 学生時代からマラソンでの勝負を考えていた藤原。4年時は夏合宿で40km走を行なうなど、シーズンを通してマラソンを意識したトレーニングを積んでいたという。

「当時、日本学生長距離界のエースは卒業前のマラソンで結果を残していたんです。駒大・藤田敦史さんが日本学生記録を作り、早大・佐藤敦之さんが2時間9分台に突入しました。そういう選手に憧れがありましたし、僕もマラソンで世界に出ていきたいと思っていました」

 そして3月のびわ湖毎日マラソンで初マラソン日本最高&日本学生記録となる2時間08分12秒をマーク。狙い通り、パリ世界陸上の日本代表に選ばれた(大会は故障のため欠場)。

 学業成績も優秀だった藤原は中大の卒業式で文学部史学科の総代を務めると、Honda入社後もマラソンで存在感を発揮した。2010年の東京マラソンで日本人選手として初優勝。2013年のモスクワ世界陸上と2015年の北京世界陸上に日本代表として出場した。

 2016年春、藤原は低迷していた母校の駅伝監督に就任。「2~3年でシード権、5~6年で3位以内、10年で優勝を目指したい」と語っていたが、その言葉どおりの結果を残し続けてきた。箱根駅伝は就任6年目で6位、7年目で2位と躍進。就任10年目を迎えた今季は全日本大学駅伝で過去最高タイとなる2位に入っている。2026年正月の箱根駅伝で総合優勝を成し遂げることができれば、大学としては30年ぶりの歓喜となる。

Profile
ふじわら・まさかず/1981年3月6日生まれ、兵庫県出身。西脇工業高(兵庫)―中央大―Honda。出雲駅伝、全日本大学駅伝を含む3大駅伝には大学4年間すべて出場。箱根では1年時に5区、4年時に2区で区間賞を獲得。卒業直前のびわ湖毎日マラソンで当時の初マラソン日本最高記録で、夏の世界陸上パリ大会日本代表に内定した。卒業後はHondaで競技を継続し、世界陸上選手権には2013年モスクワ大会、15年北京大会のマラソンを含め計3回、日本代表に選ばれている。2016年3月に現役引退を表明するとともに、中大陸上部の駅伝監督に就任し、現在に至る。

【箱根駅伝成績】
2000年(1年)5区1位・1時間11分36秒
2001年(2年)5区2位・1時間13分52秒
2002年(3年)5区3位・1時間14分36秒
2003年(4年)2区1位・1時間07分31秒