70歳となった達川光男氏は高校生の指導にも力を注ぐ 元広島正捕手で元広島監督、阪神、中日などでもコーチを務めた達川光男氏…

70歳となった達川光男氏は高校生の指導にも力を注ぐ

 元広島正捕手で元広島監督、阪神、中日などでもコーチを務めた達川光男氏は2025年7月13日に古稀を迎えた。2018年限りでソフトバンクヘッドコーチを退任して以来、ユニホームこそ着ていないが、70歳になっても精力的な日々を送っている。自分を律するために「(広島県の)宮島弥山にも行かせてもらいました」とも話したが、高校野球などアマチュア指導にも情熱を注ぎ、自身が培ってきたものを次世代に伝承中だ。

 広島商では迫田穆成監督、東洋大では高橋昭雄監督、1977年ドラフト4位で広島入りしてからは古葉竹識監督、阿南準郎監督、山本浩二監督の下で達川氏はプレーした。現役引退後はダイエーで王貞治監督、阪神で星野仙一監督、中日で谷繁元信監督、ソフトバンクで工藤公康監督に仕えた。自身も1999年から2シーズン、広島監督を経験した。さらには大下剛史氏、三村敏之氏、衣笠祥雄氏、江夏豊氏、落合博満氏、大野豊氏……。いろんな人に支えられ、教えられて、その野球人生は続いている。

 達川氏は今、そんなすべてを余すことなく次世代に伝えている。「私は江夏さんにキャッチングが一番大事ということを教えてもらった。だから野球教室ではまずキャッチボールも『投げることばかり考えるのではなく、捕ることも考えなさい。いいところで捕れたら、次、投げやすいから』って言っている。高校野球の指導でもキャッチャーにスローイングはあまり教えない。キャッチングを教えています」。

 時代は変わり、教え方も違ってきているなか、柔軟な対応も心掛けている。「去年(2024年)は43校、いや、それ以上かな。鳥取は(元広島投手の)川口(和久)が大使(とっとりへウェルカニスポーツ総合アンバサダー)をやっている関係もあって、ほとんどの学校に行ったかな。他にも四国4県、島根、福岡、兵庫……。(広島)県外まで行く時もあるし、(県外の学校が)広島に来た時に教えることもありますよ」。

 そんな中「弘法大師空海、伊藤博文や歴史上の有名な人が修行した弥山に行かせてもらいました」と達川氏は話す。「去年の放送で(解説者としてある球団について)“あのチームは打つことしか興味がない、守ることと走ることには興味がないんです”と大変失礼な言い方をして、おしかりを受けました。確かに私がいけなかった。相手をリスペクトしないといけなかった。それも反省して、このままではいけないと思って……」。

 世界遺産の厳島神社がある宮島の標高約535メートルの霊峰・弥山。山頂近くの霊火堂には消えずの火がある。その火の上に大きな釜があって、お湯が沸かされており、それを飲むと万病に効くといわれている。「そこに行った時、ちょうどお坊さんがいらっしゃってね、『達川さん、手も足もきれいですよ。汚れているのは心だけですよ』と言われました」。それから消えずの火の湯を飲み、頂上に向かったという。

「神様が私にどこに行ってもいいピッチャーをくれたと思う」

「『頂上で空を見上げてください。そして下を見てください』と言われました。謙虚に空を見上げて感謝し、下を見て苦しんでいる人がいたら助けてあげなさいと……」。達川氏は広島商時代に、2本並べた日本刀の刃の上に立つ“真剣刃渡り”など数々の修行、鍛錬を繰り返し、自身の成長につなげてきた。何歳になっても、その精神は変わらない。自分を律するために、弥山でもう一度に原点に戻った。その上でアマチュア指導などにも精を出しているわけだ。

「これまで本当にいろんなことがあった。私みたいな体の小さい、ほとんど何の取り柄もない人間がプロ野球の世界で生きていくためにはどのようにしていかなければいけないか。一生懸命キャッチングとか、自分でいうのも何ですけど、相手のことも研究しましたよ。(広島商でバッテリーを組んだ)佃(正樹投手)にはピッチャーをマウンドで孤独にしたら絶対いけないということを教えてもらいましたし……」と達川氏は感慨深げに話す。

「『ピッチャーの球を受けさせてもらっているという謙虚な気持ちを持て』って迫田さんにずっと言われていたけど、そういう中で神様が私にどこに行ってもいいピッチャーをくれたと思う」。高校時代の佃投手、大学時代の松沼雅之投手もそうだし、広島では同年代に北別府学投手、山根和夫投手、大野豊投手、川口和久投手、川端順投手、金石昭人投手、津田恒実投手、清川栄治投手、佐々岡真司投手ら、名前を挙げたら切りがないほどの投手王国と呼ばれる人たちの球を受けることができた。「よく言われましたよ。お前はいいなぁってね」。

 そして、しんみりとこう続けた。「北別府がね、手紙をくれたんですよ。“達川さん、私は自分ひとりで勝ってきたと勘違いしていました。達川さんのミットを目掛けて投げたら勝てたというのを気づきました。お礼もしなくてすいません。必ずこの病気を治して、帰ってくるんで、その時は食事でもご一緒してください”みたいな……。それを見た時、私も彼の勝利に微力ながらお手伝いしたんだよな、と思いましたね」。

 白血病を公表し、闘病していた北別府氏は2023年6月16日に亡くなった。65歳だった。「北別府は本当に苦しかったと思うよ。選手の時のように“達川さん、助けてくれ”というのを誰かに言いたかったんじゃないだろうか」と達川氏は寂しそうに話した。そして「北別府という、すごい大黒柱がいて、大野や他の投手がいて、津田がいて……。津田も早く亡くなってしまったけど、本当にみんないいピッチャー。私はそういう面では運がよかったと思う」とも……。 

 とはいえ、達川氏が各投手の能力をうまく引き出していたのも、紛れもない事実。赤ヘルの背番号40がデンと構えていなければ、違う結果になった投手もいたことだろう。そんなインサイドワークだけでなく、特徴的な死球アピールなどお茶の間さえも沸かせたのだから、稀有な存在でもある。今後に向けては「今日、これで終わってもいいという人生を過ごしたいです」と口にした達川氏だが、その野球人生にはまだまだいろんなことが待ち受けているはずだ。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)