島田幸作プロが2008年11月3日に他界して17年が経った。兵庫県宝塚市で生まれ、高校卒業後にゴルフを始め、AONや同…
島田幸作プロが2008年11月3日に他界して17年が経った。兵庫県宝塚市で生まれ、高校卒業後にゴルフを始め、AONや同じ関西出身の杉原輝男氏らがいたフィールドで日本オープン、日本プロなど通算15勝を挙げたキャリアを誇る。そして現在の国内男子ツアーの礎を築いた功労者でもある。
現在の日本ゴルフツアー機構(JGTO)の前身にあたる、1997年に日本プロゴルフ協会(PGA)内に設置されたレギュラーツアー統括部門「PGAツアー・オブ・ジャパン」でエグゼクティブ・ディレクターに就任。99年にPGAから独立したJGTOで初代会長を務めた。PGAとなかば喧嘩別れとなる中、火中の栗を拾うように多くのツアープロから押し上げられる形で矢面に立ち、ツアーの充実に尽力した。
「滅私の人」だった。プロのみならず、むしろ裏方やスタッフへの気配りを一番に考えていた。目上も目下も関係なく会う人みんなに「元気?」と声掛けを欠かさない。自腹を切った現場への差し入れは当たり前。いつも人を思いやる人格者が64歳で他界した時、多くの人が涙に暮れた。
その島田氏の弟子、ツアー通算15勝の女子プロ・安井純子がこのほど、兵庫・東急グランドオークGCでチャリティーコンペを開催した。今年でもう17回目になる。
島田氏は他界するまで、耳の不自由な人をサポートする聴導犬のチャリティーコンペを行っていた。「先生がやってはったこと、社会貢献って言うんかな。私もせなあかんな」。安井は師匠が亡くなってすぐにそう思った。とはいえ、どこを、誰を対象にすればいいのか分からない。できることも限られている。困ってしまい、宝塚市役所に駆け込んで相談した。紹介されたのは「宝塚障害福祉市民懇談会」。障害を持つ子ども、成人の手助けするためにボランティアスタッフが頑張っていた。迷わず寄付先をそこに決めた。
安井はレギュラーツアーでの現役時、無骨だった。口数が少なく、勝負にこだわる職人気質。そんな近寄りがたい空気を漂わせる一方で、師匠の教えを守る実直さがあった。あいさつするときは絶対に帽子をとっていた師匠のように、しっかり頭を下げる。名刺を差し出されたら両手で受けとる。そんな安井に多くの人が集まった。2009年の最初のコンペ開催時は約40人だった参加者が年々増え、この日はコース貸し切りで127人がプレーを楽しんだ。
コンペは6ホールからのショットガンスタート。途中にレストランでの食事はなく、サンドイッチとドリンクを持って出るスループレーで、景品は安井が全国各地の知人を頼って協賛を募り、梅干し、ラーメン、スイーツなど「おいしい」(安井)ものを集めた。素朴でも喜ばれるものが、参加者全員にいきわたるよう心を砕いている。
プロゴルファーらしい心遣いもある。「ゴルフ場さんにお願いして、グリーンのスピードを11フィートにしてるねん」。エンジョイゴルファーが普段体験できないツアー競技レベルの仕上がりを準備した。
コンペを仕切るのは安井のほかに知人の幹事数人と、後輩女子プロの中森正美ひとりだけ。無我夢中で始めた試みは17回を数えるうち、質素でも充実したものになった。気づけば、安井も65歳。師匠より“年上”だ。「歳のことは言わんといて!」。そう言って笑う姿を、島田氏が空から笑って見ていたかもしれない。(編集部/加藤裕一)