錦織圭という奇跡【第1回】松岡修造の視点(1)「あの日」の衝撃に思いを馳せる時、松岡修造氏の目は昨日の出来事を語るように…
錦織圭という奇跡【第1回】
松岡修造の視点(1)
「あの日」の衝撃に思いを馳せる時、松岡修造氏の目は昨日の出来事を語るように輝き、言葉はビビッドな熱を帯びる。
24年の年月をさかのぼる、2001年初夏の千葉県・吉田記念テニス研修センター。12歳以下の国内トップジュニアが集うコートに、松岡氏は「小さな勇者」が現れた瞬間を目撃した。

松岡修造氏に錦織圭への想いを熱く語ってもらった
photo by Sano Miki
「僕が最初に錦織圭選手と出会ったのは、彼が小学校6年生の時。全国選抜ジュニア大会でした。
その時の衝撃は、今でもはっきり覚えています。コート上に『天才』が現れたと感じました。僕の目の前で、まるでテレビゲームのキャラクターのように、自由自在にコートを駆け回る小さな勇者。決して足が速いわけではない。体つきも華奢な少年でした。
でも、ラケットを握った瞬間、その少年は勇者に変わる。ラケットという道具を身体の一部のように操り、テニスコートをまるごと『自分の世界』にしているようでした。
彼のプレーを見ていると、こちらが錯覚を起こすほど『テニスって、こんなに自由なんだ』と感じたことを思い出します。ファンタジスタという言葉が、こんなにもぴったり当てはまる選手がいるのかと驚かされました」
シングルス世界ランキング46位、ATPツアータイトルも手にした日本テニス界の「革命児」が、当時11歳の少年のプレーを見て、雷に打たれたようにその場に立ち尽くしたというのだ。
松岡氏が、数々の「日本人初」に彩られたキャリアに幕を引いたのは、1998年。その直後から彼は、世界に羽ばたく選手を日本から生み出すべく、男子ジュニア強化プロジェクト『修造チャレンジ』を立ち上げた。
当時の合宿参加者は、14歳から18歳が対象。ただ、錦織圭を目にした時、松岡氏は「12歳以下から始めなくては」との思いを強くしたという。それほどまでに錦織は別格で、「世界で戦える才能だ!」と松岡氏に確信させる光だった。
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【彼のプレーは言語化できない】
今回、「錦織圭という奇跡」と題して話を聞くことに際し、男子のジュニア強化に20年以上携わってきた松岡氏に、率直に尋ねてみた。
「これまで蓄積した知見などをもとに、『第二の錦織圭』を育成することは可能か」と。
「無理ですね」
松岡氏は迷うことなく、断言した。
「無理だし、これはジュニアの選手たちにも言っています。『僕は、錦織圭のような才能には一生出会えない』と。
もちろん、ひと言で『才能』と言っても、いろいろありますよね。たとえば『努力の才能』だったり、『足が速い』などのフィジカル的な才能。ただ、純粋な『テニスの才能』とは何かを考えたら、それは『フィーリング』だと思うんです。
打ち方やボールへの入り方、距離感の見極めなどのフィーリング。その定義において、僕が突出した才能の持ち主だと感じた選手は、世界中でふたりだけでした。ひとりがロジャー・フェデラー(スイス)で、もうひとりが、錦織圭。
ノバク・ジョコビッチ(セルビア)やラファエル・ナダル(スペイン)もすばらしい才能の持ち主ですが、違う種類の才能だと思います。メンタルや体力、あるいは『勝つ意思』のすごさは感じますが、正直、テニスに関してそこまで驚いたことはない。『こんなことができるのか』と驚かされたのは、やはりフェデラーと錦織選手のふたりだけでした」
その「驚き」の内訳とは、具体的にはどのようなものだろうか? 松岡氏が、言語化する。
「僕の一番の望みは、『錦織圭選手の体に入ってみたい!』なんです。彼はどのように外界を見て、どう動いているかを体感してみたい。なぜ彼は、あんなにリラックスできるのか? 錦織選手の脳は僕とはまったく違うのだろうと思うし、おそらく時間の流れ方も違う。
たとえば、相手がサーブを打ってからリターンまで通常0.3〜0.4秒なのですが、錦織選手には1秒くらいに感じられているのではないか? 僕の倍くらいの時間があるような印象を受けるんです。よく言う、スローモーションのように見える......という。
僕の場合は、ボールが来たらまずは構えて、フォームを作ろうとする。だから力が入ってしまう。数学で言うと、数字をきれいにまとめて、数式的にボールを打つ感覚なんです。でも、錦織選手はもっと自由だし、フィーリングで打っている。だから残念ながら、彼のプレーは言語化できないと思います」
【髪の毛1本の精度で狙っている】
その「言語化不能」な錦織の感性を痛感した経験として、松岡氏は十数年前の、とあるエピソードに触れた。
「子どもたちを対象としたイベントに、錦織選手が来てくれたことがあるんです。その時に僕はコート内にターゲットを作り、『これに当てたら、錦織選手とラリーできる』というミニゲームをやりました。
すごく小さなターゲットなので、もちろん誰も当たらない。そこで、『じゃあ最後に、錦織選手にお手本を見せてもらいましょう!』と言ったんです。予定にないことで、はっきり言って無茶ぶりでした。
錦織選手も、一球目は外します。そうしてもう一回トライしたのですが、その時の打ち方や打球のライン取りに驚かされました! 通常、特定の標的を狙う時はラケットの打点とターゲットを線で結び、ネット上のどのあたりを通せばいいかを定めて打ちます。僕もそうでした。
でも錦織選手は、違うんです。一球目と二球目で、思いっきり打ち方を変えたんです。普通、一球目で失敗したら、それをもとにもう少し右を狙おうとか、高く打とうとしますよね。でも彼は、言葉で説明するのは難しいのですが、サイドスピンをかけて思いっきり曲げて当てたんです。
なんでそう狙ったのか? わかりません。理屈ではなく、僕には『本能で打っている』ように見えました。『この人は、そういうことができるんだ。だから試合中も、本当に髪の毛1本くらいの精度で狙っているのだろう』と思い知らされました」
初の邂逅(かいこう)から今に至るまで、松岡氏は錦織の成長をつぶさに追い、数えきれないほどの試合を目に焼きつけ、そのたびに衝撃や歓喜、時には胸を潰されるような苦しみも覚えてきた。
そんな松岡氏に、尋ねた。「もっとも印象に残っている錦織圭の試合は、どれですか?」と。
答えはやや意外であり、同時にのちの錦織の躍進を思う時、その起点となる必然の一戦でもあった。
【腹筋が切れるほど大声で怒った】
話は再び、2001年に戻る。
錦織との出会いに衝撃を受け、「この逸材を、一日も早く世界に送り出したい」と切望した松岡氏は、日本開催の国際ジュニア大会『ジャパンオープンジュニア』にかけ合い、12歳になる錦織を出させてほしいと懇願した。
だが、答えは、ノー。「12歳の選手を、18歳以下の大会に出場させるのは無理がある」というのが共通見解だった。
それでもあきらめられない松岡氏は、自らが大会スポンサーになることで、『主催者推薦』の権利を得る。そして12歳の錦織に、ワイルドカードを与えたのだ。
その初年の2002年大会では、錦織はシングルス初戦敗退。ダブルスは1回戦で日本人ペアに勝つも、2回戦でオーストラリア人ペアに0-6、0-6で完膚なきまでに叩きのめされた。
この敗戦後、松岡氏は「腹筋が切れるほど大声で怒った」という。負けたことが、問題なのではない。大柄な年長選手に、はなから勝てるはずがないとあきらめていた、その姿勢に対して、怒鳴ったのだ。
それから1年後──。同大会に出場した錦織は、シングルス初戦で日本人相手に勝利すると、2回戦でアメリカのスコット・オーセマと対戦した。17歳の誕生日を控えたオーセマは、191cmの長身から打ち下ろすサーブが武器の世界トップジュニア。その文字どおり強大な相手に、錦織は敗れるも、4-6、6-7の大熱戦を演じたのである。
以下、松岡氏の回想。
「相手のアメリカ人選手は、コーチたちも帯同していた期待の選手。どう考えても勝てない相手です。僕なんかは、どうにか1ゲームでも取ってほしいと思いながら見ていたら、結果は大接戦でした。
その前年にダブルスで負けた時の錦織選手は、相手のサーブを怖がり、逃げていたくらいだったんです。あの時は怒りました。なぜなら錦織選手は、この先もずっと、自分より大きな選手と戦わなくてはいけないことがわかっていた。だから『体格で負けているから勝てない』という意識は、絶対に変えなくてはいけないと思っていたんです」
13歳の錦織の奮闘が松岡氏にとって何より思い出深いのは、明確な意識の変化を、小柄な少年の内に見いだしたから。そしてその内面の革命こそが、のちに世界のテニスシーンをも変える、壮大な冒険の始まりであった。
(つづく)
「松山英樹さんや羽生結弦さんからも感じた」
【profile】
松岡修造(まつおか・しゅうぞう)
1967年11月6日生まれ、東京都出身。姉の影響で10歳から本格的にテニスを始め、中学2年で全国中学生選手権優勝。福岡・柳川高時代にインターハイ3冠を達成し、その後アメリカへ渡る。1986年にプロ転向し、1992年のソウルオープンで日本人初のATPツアーシングルス優勝。1995年のウインブルドンでは日本人62年ぶりのベスト8。オリンピックにはソウル、バルセロナ、アトランタと3大会出場。1998年に30歳で現役を引退。現在は日本テニス協会理事兼強化育成副本部長を務めながらスポーツキャスターとして活躍。ランキング最高位シングルス46位。身長188cm。