Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち【第18回】スキラッチ(ジュビロ磐田) Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の…
Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第18回】スキラッチ
(ジュビロ磐田)
Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。
第18回はサルヴァトーレ・スキラッチを取り上げる。このイタリア人ストライカーはワールドカップ得点王の経歴をひっさげて、1994年にJリーグにやってきた。ゲームメイクやアシストはチームメイトに託し、ゴールを奪うことに特化した愛称「トト」は、生粋の点取り屋である。
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サルヴァトーレ・スキラッチ/1964年12月1日生まれ、イタリア・パレルモ出身
photo by AFLO
スキラッチの名前が極東の島国まで知れわたったのは、1990年のイタリアワールドカップである。
1990年3月に代表デビューを飾り、6月開幕のワールドカップに滑り込んだスキラッチは、オーストリアとの開幕戦で途中出場から決勝ヘッドを叩き込むと、グループステージ第3戦からスタメンに抜擢される。ここでチェコスロバキア相手に先制ヘッドをマークすると、チームの勝利に直結するゴールを決めていく。実力者のジャンルカ・ヴィアッリを押しのけてチームの最多得点を記録し、大会得点王にも輝き、イタリアの3位入賞の立役者となったのだった。
光が強ければ、影もまた濃い。
一躍スターダムへのし上がったスキラッチだが、ワールドカップ以降は度重なるケガに見舞われ、「アズーリ」ことイタリア代表から遠ざかった。所属クラブでもワールドカップ前の1989-90シーズンを最後に、ふた桁得点をマークできていなかった。ジュビロ磐田に加入した1994年4月当時の客観的な評価は、期待よりも不安が、あるいは懸念が幅を利かせていた。
【背番号「9」は中山に譲った】
イタリア代表とセリエAでの彼は、ワンタッチゴーラーの印象が強かった。中盤ではシンプルに味方選手へボールをはたき、ゴール前へ走り込んでいく選手だった。
その印象が覆されたのが、1993年2月である。
アメリカワールドカップ・アジア1次予選を控えた日本代表が、イタリア・レッチェでインテルと練習試合を行なった。日本はシーズン開幕前の調整段階で、セリエAはシーズン真っただ中である。コンディションの違いはあるものの、スキラッチは日本のDF陣をスピードでぶっちぎったのだ。
ジュビロ磐田の一員となると、ここでもまたスピードを見せつけた。ドリブルで自ら運んでいくプレーが、選択肢のなかに入っていた。しかもスピード豊かに、かつ力強く前進していくのだ。
ゴール前での決定力は、全盛時と変わらずに高い。GKが弾いたこぼれ球や、DFに当たってコースが変わったボールをすかさず押し込む姿は、テレビが映し出てきた彼そのものだった。クロスボールをワンタッチで合わせるシュートの技術は、ゴールを奪うことが簡単に思えた。
また、それまであまり見せてこなかった得点パターンも見せた。華麗なターンから左足でゴールの隅へコントロールされた一撃を決めたり、ペナルティエリア外から強烈なシュートを突き刺したりしてみせた。
世界のトップレベルで戦ってきた選手がJリーグのピッチに立つと、これほどまでにできることが増えるのか。黎明期のJリーグはまだまだ学ぶことがあると、スキラッチが教えてくれた気がする。
ジュビロ磐田には1994年から1997年まで在籍した。当時のJリーグは変動背番号制で、スタメンの11人が「1」から「11」までを着けた。
加入1年目の1994年は、中山雅史が長期不在だったこともあり「9」を着けた。1995年の開幕節も同じく「9」で挑んだが、自身がチャンスを逃してジェフ市原に敗れると、翌2節から「11」を着ける。「9」は中山に譲った。「このチームのファンは、9を着ける中山を見たいだろうから」と優しい笑みを浮かべて話した。
【中山→高原→前田へと受け継がれていった】
日本におけるハイライトは、1995年のシーズンだろう。
2ステージ制のファーストステージで全26試合に出場して、24ゴールを叩き出した。チーム総得点48の半分を、ひとりでマークしている。2位の野口幸司(ベルマーレ平塚/現・湘南ベルマーレ)は16得点、3位の福田正博(浦和レッズ)、ベッチーニョ(平塚)、デリー・バルデス(セレッソ大阪)は15得点だったから、スキラッチの得点能力は抜きん出ていた。
しかし、得点王に輝くことはできなかった。セカンドステージはケガで欠場することが多く、ゴール数を伸ばすことができなかったのだ。福田に最終節で上回られ、タイトルを逃したのだった。それでも、34試合出場で31ゴールの数字は驚異的である。
当初は1995年シーズンまでの契約と見られていたが、1996年シーズンもサックスブルーのユニフォームを着た。このシーズンは全30試合のうち23試合に出場し、得点ランク4位の15ゴールを記録している。計算できるFWとして貴重な戦力だった。
適切なタイミングに、適切な場所にいる選手だった。それこそが、彼が誇るべき才能だっただろう。
得点王を争う彼のような選手は、「シーズンに何点取りたいか」とか「得点王になるには何点必要か?」といった質問を受けることが多かった。Jリーグ開幕当時の取材現場では、サッカーに馴染みの薄い人にも関心を持ってもらうために、わかりやすい数字を記事に織り込む傾向があったように思う。
スキラッチの答えは決まっていた。
「自分の持っている力を、試合で最大限に発揮することに集中している」
リーグ戦は1試合ずつの積み重ねである──。2025年の今なら日本でも共通理解となっているメンタリティを、30年前のスキラッチは僕らに訴えてくれていた。
Jリーグ30数年の歴史で、得点王を輩出したクラブは「15」を数える。複数人の得点王を輩出したクラブも多いが、その全員が日本人選手のクラブはひとつしかない。
ジュビロ磐田である。
中山雅史、高原直泰、前田遼一が得点王となった。彼ら日本人ストライカーの系譜の源流にいるのは、スキラッチではないだろうか。ドゥンガらの影響ももちろん大きいはずだが、中山がスキラッチから吸収したエッセンスが高原へ、前田へと受け継がれていったところはあったと感じる。それがスキラッチのレガシーとしてではなくとも、である。
スキラッチは2024年9月に、59歳の若さでこの世を去った。早過ぎる別れを悼(いた)みつつ──彼が日本に残してくれたものは、確かに息づいていると思うのだ。