“球界最高の投手”ロイ・ハラデイが逝去――。11月7日、痛ましいニュースが全米を駆け巡った。…
“球界最高の投手”ロイ・ハラデイが逝去――。11月7日、痛ましいニュースが全米を駆け巡った。享年40歳。ハラデイ自ら操縦していた小型飛行機が、メキシコ湾で事故を起こした結果だという。

2010年の地区シリーズ第1戦でノーヒット・ノーランを達成したハラデイ
「ロイ・ハラデイの早すぎる死という悲劇的なニュースを聞き、私たちは感覚が麻痺(Numb)した状態です。球団史上、最大級にリスペクトされた人物を亡くし、フィリーズ・ファミリーの悲しみを表現する言葉はありません」
ハラデイが、2010年から現役最後のシーズンとなる2013年までを過ごしたフィリーズはそんな声明を発表している。このなかで、「麻痺(Numb)」「リスペクト」という2語が、特に象徴的に見えてくる。
事件を聞いた直後の人々の感情を表すのに、”Numb”という表現は適切なのかもしれない。あまりにも突然に訪れた悲報に接した球界関係者は、悲嘆にくれるというより、どう反応していいかわからないというのが正直なところだからだ。
1998年にブルージェイズの一員としてデビューしたハラデイは、以降の16年間で通算203勝(105敗)、防御率3.38をマークした。合計8シーズンで16勝以上を挙げ、2003年と2010年にサイ・ヤング賞を獲得。2010年は、シーズン中に完全試合を、同年のプレーオフにノーヒット・ノーランを達成するなど、”球界最高の投手”という呼称に相応しい活躍をした。ケガもあって衰えが早かったという面はあるが、それでも同世代の誰よりもリスペクトされたピッチャーだったことは間違いない。
ブルージェイズとフィリーズという、両リーグの東地区のチームに属していたハラデイのキャリアを、筆者は頻繁に現場で目の当たりにする幸運に恵まれた。最も印象に残っているのは、やはり2010年の地区シリーズ第1戦で達成した、MLBプレーオフ史上2度目となるノーヒット・ノーランである。
「毎日、フィールドに来るのが楽しみで仕方がない」
ブルージェイズ時代はチームとしての成功に恵まれなかったハラデイが、フィリーズ移籍1年目のこの年、生き生きとした笑顔でそう語っていたのが思い出深い。生涯初となるプレーオフでの先発機会が訪れたのは10月6日。チーム打率、得点、本塁打数のすべてでリーグ1位だったレッズを相手に、通称”ドク・ハラデイ(19世紀のガンマン、ドク・ホリデーに名前が似ていることから)”は圧巻の投球を見せてくれた。
「このゲームをまだ見ていない人は、早く見始めるべきだ」
試合が5回くらいまで進んだ頃に、筆者はそうツイートしたのを覚えている。この日のハラデイは、速球、チェンジアップ、カーブ、カットボールのすべてが恐ろしいほどに切れていた。”快挙の予感”は、かなり早い段階からスタジアムにが漂っていたが、ハラデイはその期待を裏切らなかった。104球中79球がストライク、8奪三振、1四球という素晴らしい内容で、楽々とノーヒット・ノーランを達成してしまったのだ。
「これまで目撃したなかで、最も支配的な投球」
当時、『スポーツ・イラストレイテッド』誌に属していた、著名な記者のジョン・ヘイマンはそう記していたが、筆者も同じ想いだった。舞台の大きさを考慮すれば、それまでの取材歴で最高のピッチング・パフォーマンス。白い炎が燃え盛るような静かな気迫は、記者席まで伝わってきた。重圧のかかるプレーオフデビュー戦で快投したピッチャーに対し、畏敬の念すら抱いたのだった。
振り返ってみれば、この試合がハラデイのキャリアで最大のハイライトになった。
「この時期のために僕はフィラデルフィアに来たんだ。ここまでも最高の年だったけど、まだやらなければいけないことは残っている」
快挙を達成した後にそう語ったエースだったが、その「やらなければいけないこと」が果たされることはなかった。ワールドシリーズ制覇の大本命と目されたこの年、フィリーズはナ・リーグ優勝決定シリーズで敗退。以降も世界一には届かず、プレーオフでは通算わずか3勝のみに終わった。
ポストシーズンでのノーヒット・ノーランはとてつもない偉業だが、ハラデイの実力を考えると、あのレッズ戦以上にスポットライトを浴びることがなかったのは残念だった。当時、現役最高の実力者でありながら、ワールドシリーズでの登板が叶わなかったのは”悲運”としか言いようがない。そして今週、突然訪れた人生の終幕は、悲劇のストーリー感をさらに強めてしまったように思える。
ただ……チャンピオンになれず、つらい最期を迎えはしたものの、ハラデイという名投手が忘れられることはない。今後、名誉の殿堂入りを果たすことがあろうとなかろうと、常に準備と努力を怠らなかった右腕に対するリスペクトが薄れることはないだろう。
「できることはもう何もなかった。いいピッチングはいい打撃を打ち破るということ。そして今夜の(ハラデイの)投球は最高だったということだ」
あのドラマチックな2010年10月6日、レッズを指揮していたダスティ・ベイカー監督の言葉から漂ってきたのは、「ハラデイが相手なら仕方ない」というあきらめに近い感情だった。
投手として優れているだけでなく、プレーに臨む真摯な姿勢でも評価が高かった好漢。本名ハリー・リロイ・ハラデイ3世は、そんなピッチャーだった。同世代のペドロ・マルチネス、ランディ・ジョンソン、カート・シリングといった名投手たちはキャラが濃く、毀誉褒貶(きよほうへん)も激しかったのとは一線を画し、ハラデイは満場一致で誰からも尊敬されたスーパースターだった。
鮮やかな記憶の残像は決して消えない。今でもふと目を閉じれば、2010年秋の驚異的なパフォーマンスと、度肝を抜かれたようなフィラデルフィアのファンの歓声が、”白い炎”の迫力ともに鮮明に甦ってくるのである。